ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

D51 88

田中 泰三様の画像の転載はご遠慮ください。

エプロンは1970年の全般検査の時に設置された模様。

 

鉄道省 浜松工場」の銘板が外されてしまったのは残念。

 

昭和47(1972)年5月22日 新津機関区

1500リッターの重油タンクだと思います。炭水車から伸びるパイプは、機関区のお風呂にでも蒸気を送っているのでしょうか。左側のステップがスノコ状のものに交換されています。形式プレートは外されていますが、炭水車は「8-20A」かと思います。台車はナメクジと同様に鋳鋼製ですが、軸距が1700mmから板台枠台車と同じ1600mmに変更されています。(板台枠台車の炭水車が「8-20B」、胆振縦貫鉄道のD51では「9-20」を、戦時型の船底形は「10-20」)

 

昭和49(1974)年7月23日 滝川駅

当時、知識の極めて乏しかった私は、この88号機を見て、「54号機よりも完全に普通の姿に改造された元ナメクジ」だと思い込んでおりました。

最後の3年足らずを北海道で過ごすにあたり、北海道仕様への改造の他、キャブ屋根の延長部分の撤去、タブレットキャッチャーの増設と、それに干渉するナンバープレートの前方への移設、炭水車上の重油タンクの撤去などが施工されています。タブレットキャッチャーの増設により、手摺兼縦樋のパイプは、通常だとタブレットキャッチャーを避けるように屈曲させるのですが、そこは手付かずのままで、ストレートです。

炭水車の前照灯や漏水管はそのままなのでしょうか。炭水車背面の写真って、ホント少ないです。

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D5188

「母の日」に掲載できれば洒落ていたかも。

D51 86

田中 泰三様とSAMPUKU爺様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和43(1968)年12月26日 旭川機関区

 

昭和47(1972)年6月14日 深川機関区

車歴は↓こちら。

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標準試作機の第一号になります。お馴染みのデゴイチスタイルです。

軸重配分を是正すべく、ナメクジを止めて給水温めを煙突前に据え、後方に偏っていた軸重を前方へ移動させています。給水温め器を煙室の上に載せる場合、9600やC51、C52では煙突後方に載せていましたが、軸重を少しでも前方へ移動させるためにD51では煙突前となり、このスタイルがD52やC58にも採用され、見慣れた姿となっています。もしも煙突後方に据えていたら、集煙装置の形もだいぶ違ったものになっていたかもしれません。D50のように、更に前方となるフロントに置かなかったのは、先輪の担いバネカバーがあって置くスペースがなかったためであり、C53のように前端梁の裏も同様の理由でスペースがなかったからです。どちらも大幅な設計変更を行えば不可能ではないでしょうけれど、そこまでしなくても煙突前の移設だけで所定の軸重配分が達成できたということでめでたしめでたし。

煙室前端の丸味は止めて角張ったものになりました。前端に丸味を設けるのはかなりの工数を要する作業にも思え、また平滑性の問題によるものなのか、錆びが生じたために丸味を止めて角縁に改造されたナメクジも数輌存在しており、前端丸味はスーパーナメクジのドームのように、機能的には無意味で保守の面ではむしろマイナス、単なる「見たくれの良さ」だけだったのかもしれません。

標準試作機である86~90号機の5輌は全て国鉄浜松工場で製造されました。101号機以降の標準機ではキャブが幾分後方へ拡大されましたが、標準試作機ではナメクジと同じ寸法のままです。

D51 85

SAMPUKU爺様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和42(1967)年8月5日 岩見沢機関区

車歴は↓こちら。

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新製配置以来、道内から出ることのなかった、北海道生え抜きの機関車です。(生まれは大阪ですが。)函館本線電化開業前なので補助灯はありません。大型前照灯1灯だけの姿も切り詰めされていない除煙板も、個人的には馴染みが薄いので、自分の知らない遠い時代を感じてしまいます。遠いといっても私は当時小学生4年生。ついこの間じゃん。もしもその時に鉄ちゃん化して、校則無視で(一人で外出できる範囲が決められていました)苗穂機関区へ行っていたら、このナメクジにもSAMPUKU爺様にもお会いできたのかもしれません。北海道のほぼ全線で蒸機列車が走っていた時代。走っていなかったのは貨物列車が走っていなかった根北線くらいだったでしょうか。多くの炭鉱が残っており、明治生まれの古典ロコもまだ健在でした。あ~溜息が出ちゃう。

旋回窓前方の防護網はツララ切りでしょうかね。運転窓の防護はDD51にもかつて防護棒という形でありましたが、いつの間にか外されてしまいました。蒸機の防護網もいつしか消えており、どんな変化や理由があったのでしょう。

エプロンの向かって右側には孔がぽっかりあいています。何かを通していたのか、それともうっかり開けてしまったものなのか。ところで「あな」というと「穴」という字の方がメジャーでしょう。「穴」と「孔」の違いは、落としアナのようなへこみや窪みを「穴」(ヘソの穴とか)、ボルトアナのように貫通したものを「孔」だと思い込んでいましたが、実際にはどちらも同じ意味であり、使い分けの基準はその大きさなのだとか。つまり大きいアナが「穴」で、小さなアナは「孔」。じゃ、尻のアナはどうかというと普通は「穴」。ってことはケツのアナより小さいのが孔なのかな?いやそれとも鼻の穴かな?そういえば昔、日曜日の昼の番組で、ビックリ人間を紹介するコーナーがありました。今でも印象深く残っているのは、左右の鼻の穴から片や牛乳を、片やコーヒーをすすりこみ、それを目からコーヒー牛乳として出すビックリ兄ちゃんでした。見ていて、思わず鼻から目にかけてツーンとしてしまいましたよ。他には、生きた金魚を呑み込んで、しばらくしてそれを吐き出すと、金魚はちゃんと生きているというものもありました。昔のテレビ番組も、今に劣らず下らないことを垂れ流していたものです。恥ずかしい思いをして隠れたくなるのは「穴」ですね。

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田中 泰三様とSAMPUKU爺様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和42(1967)年8月17日 室蘭機関区

 

昭和47(1972)年6月13日 小樽築港機関区

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小樽築港区での画像は、廃車を前提とした休車状態のようです。

5年の間に変わった所と云えば、ナンバープレートの上方にあった灯具掛けが下方に移動しています。除煙板の切り詰めとそれに付随する手摺や補助灯の設置、そして旋回窓は標準的な北海道化ではあります。清缶剤送入装置が撤去されています。

煙突後方から砂箱までの間で、ドームの接合位置は一般的には水平なのですが、84号機では後ろにせり上がっています。入手している画像や雑誌の写真を見返して見ると、79号機以降がそうなっています。(86~90号機は標準形なので除く。)いずれも汽車會社製なのですが、工作法を変えたのでしょうか。

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田中 泰三様とSAMPUKU爺様と江別の鐵様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和42(1967)年8月13日 滝川機関区

 

昭和42(1967)年8月17日 美唄

 

昭和47(1972)年6月18日 鷲別機関区

 

昭和47(1972)年7月 千歳~美々

 

昭和47(1972)年7月 西の里信号場

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煙室扉の十字ハンドルは、いつの間にか普通の丸ハンドルに変わっています。他の機関車と、ばくったのでしょうか。

ナンバーは53号機などと同様な窮屈タイプ。

砂撒き管が3本とも垂直に降りているのは汽車會社製の特徴です。

関東地区での運用ではスノープラウが必要なかったらしく、昭和42年の画像では前端梁に固定用のボルト孔がありません。昭和47の画像では、それらしき孔が確認できます。

画像の西の里信号場は単線時代の時の物で、数年前に廃止されたものとは場所が異なります。右端に事務所の建物が見えます。事務所のすぐ前にはタブレット授受のための短いホームがあり、乗降もできたようです。昭和48年9月に、現在の新線に切り替わり信号場は廃止されました。因みに国鉄時代、根室本線の金山~東鹿越間にあった鹿越信号場や、超有名な常紋信号場も、かつてはホームがあって乗降できました。駅に昇格した仁山信号場や姫川信号場や渡島沼尻信号場もおそらくそうだったのではないかと。

築堤を行く画像は、南千歳駅の南側にある、石勝線を跨ぐ場所で撮影したものでしょう。当時はまだ南千歳駅はありませんでしたので、江別の鐵様は千歳駅からせっせと歩いていったのでしょう。若い頃って、歩くことに全然抵抗はありませんでしたね。

 

新鶴見区時代の写真が見つかりました。

昭和41(1966)年頃

北海道の時代に比べ、うっとりするくらい美しく思ってしまうのは、私の勘違いなのでしょうか。シールドビームはとても残念ですが。

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田中 泰三様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和47(1972)年5月22日 新津機関区

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北陸での運用が長かったため、旋回窓は必須です。

画像では分かりませんが、キャブ屋根が長~く延長されています。キャブ側面よりも長い。笑っちゃうくらい長い。東北にも同様の機関車が多々あったようですが、これも積雪地域ならではの措置でしょうか。同じ積雪地域といっても、北海道ではカーテンや密閉キャブ化で凌げたからでしょうか、そのような改造車は見かけませんでした。もっとも、東北の密閉キャブ機である229号機、242号機、336号機、763号機、812号機、1099号機、1122号機などでも屋根は延長されていたので、なんかもう意地で延長しているようにも思えます。因みに、1号機も青森区時代には結構長めの延長屋根でしたが、浜田区へ転属後にバッサリ切り落とされたようです。

汽車會社製らしく、ナメクジドームは控えめなので、煙突の円筒形状が目立ちます。

81号機でもそうなのですが、除煙板点検口直下のランボード縁には、6個のボルトだかリベット状の突起があります。一体何なのでしょう。東北・北陸のD51に見られる特徴なのでしょうか。北海道では38号機に見られます。

ELファンに熱愛されて、ちょっとした騒動の渦中にあったEF66形式27号機には「ニーナ」の愛称があるようですが、この82号機が「ハニー」と呼ばれていたかどうかは定かでありません。

D51 81

田中 泰三様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和43(1968)年3月31日 熊本機関区

車歴は↓こちら。

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正面ナンバープレート横の灯具掛けがチャームポイント、かも。

ランボードとモーションプレートの白縁は九州らしい化粧です。そのランボードが、キャブに向って少し跳ね上がっています。何かあったのでしょうか。

向って右側除煙板の下側補強板が、帯板ではなく型鋼でも使っているのでしょうか、影が深いです。

煙突上端の縁取りはオリジナルなのでしょうか。戦前のナメクジの写真を見ると、汽車會社製にも川崎車輛製にも縁取りはありません。既出の72号機や79号機にもありません。なおパイプ煙突ならば、ほぼ付いています。ナメクジの煙突縁取りは、回転式火の粉止めを載せるための補強だったのでしょうか。

 

D51はD50の改良型と云われる通り、性能的に劇的向上こそ見られないものの、運転の操作性や乗り心地が改善されおり、乗務員からの評価は高く、また検修の現場でも扱いやすいとの評判だったようです。一方、蒸機ファンからすれば「またデゴイチか」とばかりにそっぽを向かれることも少なくなく、優秀な車輛が人気が高いということにはならないようです。そういえば東海道新幹線0系も、現役バリバリの頃は、鉄道ファンからはあまり趣味の対象とはされませんでしたっけ。