ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

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田中 泰三様とSAMPUKU爺様と”撮り人不明”様の画像につき、転載はご遠慮ください。

撮影日不明 直江津機関区

松任式の集煙装置を搭載。北陸線D51はもともと敦賀式を採用していましたが、松任工場担当機は順次、松任式に交換されたようです。

担いバネカバーにはヘッドマークステーのような垂直材が立っていますが、大きさと形からすると、後部標識灯用なのかもしれません。

ATS用の発電機を公式側に設置しています。

炭水車の増炭枠はいささか腰高のものです。

 

昭和43(1968)年6月2日 糸魚川機関区

タブレットキャッチャーがないため、各種プレートや札がキレイに配置されています。

「濱松工場」という表記がいいですね。

「特休車」に指定することで、交番検査までの期間を伸ばしたのかもしれません。

 

撮影日不明 北陸本線 能生付近

煙を出さずに淡々と走っているようです。ここは旧線でしょうね。

能生と云えば能生騒動という「事件」が有名です。国鉄部内の連絡不足が招いたとても「恥ずかしい事件」でした。詳しくはウィキで。でも、その情景を想像すると、祝賀会に参列した人々の呆気に取られる顔を想像し、正直笑いがこみ上げてしまいます。それにしても、能生駅から特急列車に乗る人が一人でもいれば、駅員は特急券が発券できすに何か変だと気付いたと思うのですが。

能生近辺は海岸線が険しく、海沿いを走る旧線(単線)はしばしば自然災害に見舞われ、多くの犠牲者が出ておりました。そこで、輸送力増強を目的とした複線化をするにあたり、この付近の線形は山の中を通す形に改められ、それに伴い、能生駅の位置も変更されました。お隣の筒石駅なんかは、地中深いトンネルの中に移されて、利用者は三百段近い階段の昇降を余儀なくされ、もう大変なんですけど。

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D51526

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田中 泰三様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和45(1970)年9月25日 新見駅

ちっちゃなエプロンに目が行きます。こんなんで取り付ける意味はあったのでしょうか。

前端梁のボルト孔が左右対称ではありません。スノープラウ固定用のものでしょうけれど、スノープラウはどんな構造だったのでしょう。

給水温め器には洗管用のホース取付口があります。

除煙板点検口蓋の上方には、蓋を上側に開いた時にひっかけると思われるフック状のものが付いています。

 

昭和48(1973)年10月14日 浜田駅

製造銘板の「浜」は「浜松」で、区名札の「浜」は「浜田」を表します。

換算重量標はエッチングでしょうか。凹凸が少ないです。

新見区時代にはなかった炭水車の増炭枠が、浜田区時代では設置されています。

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D51524

 

今朝は吹雪のうちに夜が明けました。しかし、危惧したほどの積雪ではなく、吹き溜まりも大したことはなく、除雪車が硬い雪を玄関先に積み上がることも無く、通常の雪掻きで済んで一安心。実は昨日、出かけるためにズボンをはき替える際、軽いギックリをやってしまい、それがまだ少し残っているので、大雪だったらどうしようと心配していたのです。心配が杞憂に終わって何よりでした。それにしても気温が下がっています。十勝地方かと勘違いしそう。で、雪掻きをしている時に鼻毛がくっついて、久々に本格的寒さを実感したのでした。今日の札幌市の最高気温は氷点下9℃だとか。

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田中 泰三様とSAMPUKU爺様の画像につき、転載はご遠慮ください。

撮影日不明 高山駅

 

昭和42(1967)年10月22日 高山機関区

大型のLP403を据えて、表情に力強さを感じます。

ナンバープレートは形式と機番との間に隙間がないAD66180図によるもの。しかしキャブ側面のプレートはAD66398図。プレートを交換した時期が違ったのでしょうか。

担いバネカバーの前蓋は下開きながら、左右で蓋を固定しています。少数派の構造です。

キャブ側面の製造銘板で「濱」は「浜」の旧字なのに、「鉄」は「鐵」ではないのですね。

排障器は垂直タイプのもののみ。

 

昭和43(1968)年7月7日 高山機関区

LP403がLP405に交換されて、力強さは失われ、ちょっと頼りない顔に。

排障器が2段構えになりました。こちらが原設計でしょうけど、垂直タイプのものにはもともと排障板はありません。

 

昭和43(1968)年9月28日 高山機関区

排障器があまり例を見ないスタイルに変更されました。炭水車背面ではこんな構造のものがあったかもしれません。

たった今気づいたのですが、除煙板の上部ステーって、パイプを使っているのでしょうかね。取り付け部は潰しているように見えます。身近なC11では平板だったので、他の機関車も同じだと思い込んでいました。

高山機関区のD51の運用は貨物列車の牽引で、高山~飛騨金山間のわずか69.7km。昭和34(1959)年から昭和44(1969)年までの10年間の活躍でした。

 

そして稲沢第一機関区を経て中津川機関区へ異動。前照灯はLP403に戻され、集煙装置を装着。ナンバープレートは青に。

昭和46(1971)年6月26日 中津川駅

炭水車背面のナンバープレートもキャブ側面と同じAD66398図によるものでした。結局、正面だけがAD66180図によるものでした。

 

昭和48(1973)年4月14日 中津川駅

 

昭和48(1973)年8月22日 日本海博 金沢市

廃車後、日本海博覧会で展示。残念ながら集煙装置は撤去。

そして現在は金沢市で厳格な管理の下、偏平な形状のスノープラウ付きで保存されています。

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D51522

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matuno kuraが撮影した画像ではないので、転載はご遠慮ください。

昭和43(1968)年3月27日 長野運転所

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D51521

集煙装置と重油タンク、山岳路線に挑む山男の出で立ちです。

ランボードの縁に差された「白」は前端梁まで回り込んで、連結器のところで斜めに下ろされてVサインを描いているのでしょう。

キャブ側面前方にはキャブへの換気装置が見えます。長野工場担当機関車のうち、信越線、篠ノ井線、中央線の運用機に装着されたようです。

ドームの砂撒き管元栓にはカバーがあります。氷雪による対策でしょうか。氷雪が半端ない北海道では見たことがありません。

従台車は雪が邪魔して画像では判りにくいですが、鋳鋼製を履いています。この期に及んでという気もしますが、番号で仕様が区分されないのはファンとしてはスッキリしませんね。番号で区分されない構造の違いといえば、モーションプレート先端部の孔もあります。丸2個となすび型1個の違い。製造工場の違いでもなさそうだし。砂撒き管の形状も除煙板点検口の形状もマチマチで、スケールモデルを製作するモデラ―の苦労がしのばれます。

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田中 泰三様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和47(1972)年8月28日 厚狭機関区

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D51520

キャブ側面の製造銘板には、余計なボルトが1個ありますね。せっかくの「鉄道省」製なのに。

518号機同様、後部標識灯は埋め込み式です。広島工場担当機ということでしょうね。除煙板に吊り環があったり、炭水車の増炭枠は小振りだったりと、総じて、518号機とディテールの共通点が多いように見えます。

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田中 泰三様と”撮り人不明”様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和42(1967)~43(1968)年 糸崎機関区

広島機関区時代の姿ですが、入換用と思われる手摺付きの踏段がフロント部に設置されています。入換専用機ではないので、この姿で呉線を走る姿がネット上の写真で確認できました。なんとまあ、物々しいことです。

除煙板に点検口はありません。

後部標識灯を前端梁に埋め込むのは広島工場担当機の特徴かと。

蒸気排気管のカバーは残していますが、逆転機はランボード付近のカバーがありません。

 

昭和47(1972)年8月28日 厚狭機関区

広島区時代の入換用踏段は撤去され、除煙板に点検口が設けられ、フツーの姿になりました。厚狭区時代には美祢線の石炭輸送が激減しており、わずか1駅区間の枝線であった南大嶺~大嶺間では、混合列車とは名ばかりの貨車無し客車1輌だけの軽い仕業をこなしていました。(片道はバック運転。)とはいえ、石灰石輸送は盛んで、厚狭~美祢・重安間には20往復近い列車が運転されていました。

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D51518

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田中 泰三様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和43(1968)年か 大宮機関区

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D51516

大宮区所属機っぽい箇所といえば、煙室扉の十字ハンドルとドーム前方のコの字型手摺でしょうか。蒸気排気管カバーが残されているのも、特徴のひとつではあります。

キャブの下からランボードの縁に沿って、暖房用の蒸気管が前方へ伸びています。シリンダ前方で奥に入り込み、担いバネ前面カバー下部から顔を出して連結器の横の吐出部へと続きます。客車をバック運転で牽引する運用があったのでしょうか。

缶胴に沿って、少し太目のパイプが2段になって設置されています。下のパイプは手摺ですが、上のものは手摺ではなく通風器配管というものだそうです。用途は知りません。この2本のパイプの間隔は、機関車によって結構差があります。

現在は横浜市で静態保存されており、当時の勇姿を拝むことが出来ます。ただし、フロントサイドのステップは、乗降させないためでしょうか、ごっついカバーで覆われているようです。

 

最近、「鉄道ジャーナル」の初期本14冊をヤフオクで落札したのですが、それから間もなくして「旅と鉄道」の創刊号から7号までがまとめて出品されました。ちょっと競りましたが、そこそこ安値で落札できてホクホクしています。どちらも前所有者が大切に保管していたようで、古臭くはありますが、破れとか汚れ、折れといったものはなく、状態は比較的良好です。どちらも蒸気機関車に関する記事も豊富ですが、「鉄道ファン」や「鉄道ピクトリアル」にはない味があります。広告では鉄道とは無関係なものがあったりします。それにしても狭い部屋にはどんどん書籍が溜まる一方で、何とかしなくちゃとは思いつつも、非鉄道関連の書籍はすでに物置に移しているので、いよいよ何か手立てを考えなくちゃいけないようです。