ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

松前線初撮影

松前線といえば、松前城を背景にした桜咲く春のシーンがあまりにも有名ですが、今は夏。葉桜ではちょっと寂しい。もとより、そういう景色は望んでいないので、いつも通り、地図でアタリを付けていた俯瞰場所へ行ってみることにしました。函館寄り、白符駅から二つ目のトンネルの上です。駅から1kmちょいとばかり戻った所にあるのですが、道すがらで雨がぱらついてきました。なんでやねん。でもまあ、ちょいと登ってみるべかと、送電線の走る山の斜面を見上げ、送電塔の管理道と思われる草むらの獣道に足を一歩踏み出したところで、「あ、滑りそう」と感じてすぐさま断念。一片の未練もなく駅方面へ戻りました。今回は勘弁してやらあ。って、誰に向かって息巻いてるの?で、駅へは戻らずにそのまま渡島吉岡駅方面へ移動しました。

 

白符駅から1kmほどのところで高い場所を走る鉄橋があり、そこの山の斜面に上がれるんじゃね?で、上がりました。

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11:30 白符←渡島吉岡 846D

ドン曇りはいささか残念ではあるけれど、津軽海峡・・・には見えませんが、海が入ったから、まいっか。

上から撮ったなら下からも狙わんとね。

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12:12 渡島吉岡←白符 4823D

この前の列車をどこの斜面で撮ったのか、この写真では立ち位置が分かりませんけど、これにて撮影終了。時間があったので白符駅には戻らず、このまま渡島吉岡へ向かいます。

 

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渡島吉岡駅

駅舎も撮影したと思うのですが、フィルムは別ファイルに入れていると思われ、まだスキャンしていません。

青函トンネルの工事現場から離れているせいか、そういう慌ただしい雰囲気は感じられません。でも駅前には商店があり、ホッとします。

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13:35 4826D

先程の4823Dだった列車の折り返しです。乗車して函館に。

 

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13:40 渡島吉岡→白符 以下、4826Dより

先程撮影した場所を橋梁から見下ろします。

 

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15:09 釜谷渡島当別

いきなり江差線までワープしちゃいます。木古内から江差発の726Dに併結されて4両編成になりました。函館山が見えるこの場所は、後に有名撮影地になります。

 

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15:20 茂辺地→上磯

茂辺地川を渡ります。右手に見えるのは旧線跡です。重厚な貨物列車や高速な特急列車が走るということで、かなり軌道強化や線形変更が実施されたようです。この頃、まだ矢不来信号場はありません。

 

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15:28 茂辺地→上磯

右へ大きくカーブしつつ、日本セメント(現 太平洋セメント)上磯工場の専用線を跨ぎます。電気機関車石灰石や粘土を輸送していたわけですが、この2年後、ベルトコンベアーによる輸送に切り替えられて廃止に。道内では超貴重な専用線でしたが、とうとう撮影することはありませんでした。

 

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15:36~37 上磯駅 725Dと行き違い

木古内駅もそうでしたが、橋上駅への改築工事の真っ最中です。

 

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函館駅 十和田丸

函館に戻ってきました。朝方の摩周丸といい、普段は撮らない連絡船ですが、いよいよ最期が迫っているということでカメラを向けた模様。

この後、キハ183系の「北斗13号」に乗車して札幌へ向かいました。眠りこけることなく、とりあえず大沼公園までは車内アナウンスを生録していましたよ。あ、松前線の生録はし忘れた!

 

昭和62(1987)年8月9日

 

松前の地名の由来は確定していないようです。アイヌ語の「マツ・オマ・イ」の「婦人の在す沢」もしくは「山崩れの場所」とする説、川の名前の「マトマ・イ」もしくは「マトマ・ナイ」からとする説などがありますが、豊臣政権の時代から蝦夷を支配していた蠣崎(かきざき)氏のもとに転勤してきた武田信弘が、コシャマインの戦いで極めて卑怯な方法ながら(休戦して和解し友好を結ぶふりをして宴会を設け、コシャマイン軍が酔っぱらって眠っているところを急襲して)アイヌ軍を打ち破り平定したという功績により蠣崎家を継ぐこととなり、その子孫の蠣崎慶広(よしひろ)が家康の時代に松平家と前田家から1字ずつもらい受け、松前を名乗るようになり「松前藩」を確立したところから松前という地名になったという説など。