札沼線の釜谷臼(かまやうす)駅は現在の「あいの里公園」駅。明治中期、徳島県から移住した人々によって藍の栽培が始められ盛んだったことから「あいの里」という地名になりましたが、実際に「あいの里」が地名として普及するようになったのは昭和50年代半ば頃、札幌のベッドタウンとして大規模な宅地造成が始まった頃になります。
国鉄のローカル線から貨物列車が次々と廃止される中、札沼線からも貨物列車が消えるのではないかという不安がありました。すでにC11に代わってDD13やDD15といった地味な機関車が牽引していたので、気持ちの盛り上がりに欠けるところはありましたが、1日1往復だけの貨物列車ですから、それなりに記録しておかねばという使命感みたいな気持ちで撮っていたような気がします。
その日の早朝、宿題のレポートを徹夜で書き上げたところで、新琴似駅から機関車の汽笛が聞こえてきました。天気が良く、気分がハイだったということもあり、念願だった石狩川橋梁で貨物列車を撮ろうと決意し、機材を持って登校。午前中の授業を終えると札幌駅から札沼線の列車に乗車しました。
釜谷臼駅のホームから線路に降りたところ。待合室とホーム1面だけの棒線駅です。前方には、下車して家路を急ぐご婦人がおります。この先、石狩川の橋梁を渡って向こう岸まで行くのでしょうか。
昭和61(1986)年の「あいの里教育大駅」の開業に合わせて、釜谷臼駅はこの400mほど前方に移設され、平成2(1990)年には相対式ホームを持つ2面2線となって、列車の折り返しや行き違いが可能になります。平成7(1995)年に「あいの里公園駅」に改称されて現在に至りますが、立派な駅舎の割には相変わらずの駅員無配置駅です。
画面左の白い建物は倉庫でしょうが、駅裏には林があり、民家は見えませんでした。
線路伝いに石狩川橋梁まで歩いてきました。
キハ22×2+キハ56+キハ22という編成です。何とものどかな光景です。河川敷は牧草地のように見えます。実際、太美側の河川敷には牛が放牧されていました。
地元の若者でしょうか、軽い足取りで橋を渡って行きました。橋長1km余りの長い橋ですが、まだ札幌大橋がなく、地元の人たちがこの橋を行き来することを国鉄は黙認していたようです。橋の入り口には時刻表が掲示され、見通しが良く、退避場が何カ所もあるので、余程の不注意者でもない限り、事故は起こらないでしょう。
待避場でカメラを構えました。河川敷が広いため、石狩川を入れて撮るには橋の上でないと無理でした。釜谷臼方面を見ると、人家はただの1軒もありません。大きなマンションや宅地が密集する現在とのあまりの違いに、驚きを禁じ得ません。
正面奥の山は、札幌市内の円山や盤渓方面。
この後もモノクロフィルムに入れ替えて、しばし列車撮影を楽しんでおりました。
昭和52(1977)年10月1日