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昭和47(1972)年8月 小樽築港機関区
火を落とし、休車のようです。炭庫の上部には、同じく入換機である38号機などに見られた手摺はありません。
昭和51(1976)年8月14日 小樽築港機関区
扇形車庫の近くに留置されていた頃で、後ろはC62 3。その大きさの対比が面白かったです。
昭和51(1976)年9月27日 小樽築港機関区
カラーになっただけで、他は何にも変わりません。
昭和52(1977)年3月7日 苗穂工場
静態保存に向けて苗穂工場で整備のために入場した頃。近くにいた職員さんに断って撮らせていただきました。すぐ近くにはC55 50もいましたが、C62 3の姿はありませんでした。キャブ出入り扉には「反対側の扉を開けることができます」とペンキ書きされています。
昭和52(1977)年4月23日 手宮駅(北海道鉄道記念館)
正式展示前でしたが、自由に立ち入ることができました。後ろに見えるのはC55 50で、C12 6の前にはC62 3がおります。3輌の機関車は、作業空間確保のためか、数メートルの間隔を開けて置かれていました。
昭和52(1977)年4月29日 手宮駅(北海道鉄道記念館)
まだ正式展示前ですが、すでに準備を終えた様に見えます。この日も自由に立ち入れましたし、展示後も全く自由に出入りできました。ナンバープレートが装着され、現役時代の姿が甦りました。
車歴は↓こちら。
C126 機関車データベース (形式C12) - デゴイチよく走る!
昭和の初め頃、道路整備は全国的に遅れており(舗装道路は1本も無し)、国鉄や中小の私鉄が住民の足や貨物輸送用として大いに利用されていました。国鉄では、当時不況の中にあって毛細血管のように全国くまなく路線を建設(もしくは私鉄を買収)するため、建設工事費や輸送量との兼ね合いから経済的な簡易線という分類を新たに設けて地方路線の充実に努めたわけですが、そんな簡易線向けに設計されたのがC12形式でした。C11よりも一回り小型のタンク機関車でしたが、溶接工法を更に多用し、製造の近代化が図られています。当時、勾配区間での補機にも使用されていたパワフルなタンク機関車B6(2100、2120、2400、2500形式)よりも軸重が軽いものの(B6の13.5tに対してC12は10.9トン)牽引力では勝っており、C11が入線できない地方ローカル線を中心に投入されました。簡易線の最高速度はわずか45km/hに抑えられていましたが、本線での運用も考慮して動輪径はD51などと同じ1400mmです。(9600やE10は1250mm。)低速度運転であることから除煙板は設けられませんでした。(後年、199号機のように装備した機関車が数輌存在しました。)
道内ではC12の最後の牙城として、手宮駅での入換仕業がありました。私は残念ながらその光景を目にすることはなく、廃車になってから小樽築港機関区に留置された姿を見ただけで、C62 3と背中合わせに並ぶ姿は微笑ましくもありました。手宮駅では貨車の入換にはC12の他に馬も使われており、北海道新聞で紹介されてちょっとした話題になりました。
昭和54(1979)年には小樽市内の市民団体などが、C12 6を観光列車用に動態復元させようと、その可能性について小樽市と国鉄に検討を依頼しましたが、結局は実現しませんでした。もし実現していたら、今でも手宮線は観光路線として生き延びていたかもしれませんし、小樽市総合博物館行きの列車が札幌から出ていたかもしれませんね。