ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

C12 32とC12 38

田中 泰三様と江別の鐵様の画像につき、転載はご遠慮ください。

f:id:railway-photo:20210222071412j:plain

昭和43(1968)年10月3日 西舞鶴機関区

車歴は↓こちら。

C1232 機関車データベース (形式C12) - デゴイチよく走る!

舞鶴線小浜線の接続駅である東舞鶴駅からはかつて2本の支線が分岐しており、そのうち中舞鶴までの3.4kmを結ぶ通称「中舞鶴線」には旅客列車も運転され、貨物列車とともにC12が牽引していたようです。いささか古めになりますが、昭和36(1961)年10月号の復刻版時刻表を見ると、7往復の旅客列車が設定され、路線内列車の他に始発駅を西舞鶴、福知山とする列車や、豊岡、福知山を終着とする列車もあります。中でも中舞鶴発豊岡行きの240列車は、所要時間が2時間40分です。

昭和47(1972)年に廃止され線路跡は一部遊歩道となり、中舞鶴駅跡にはこの路線には縁のなかったC58 113が保存されています。

もう1本は東舞鶴港まで1.3kmの貨物線でしたが、こちらは昭和5(1930)年に開業し、昭和16(1941)年には廃止されています。

なお東舞鶴、東舞鶴港(ひましまいづるこう)は、開業時はそれぞれ新舞鶴、新舞鶴港(しんまいづるみなと)の駅名でした。

 

f:id:railway-photo:20210222071532j:plain

昭和47(1972)年8月 小樽築港機関区

車歴は↓こちら。

C1238 機関車データベース (形式C12) - デゴイチよく走る!

前回の6号機とはトラ模様の塗り分けが異なります。こちらはナンバープレートの上端(炭庫の水タンク上端)までとなっています。左側ステップがヤケに広いのも特徴でしょうか。そして炭庫をぐるりと囲んだ手摺が、後のDD16にも見られる入換機の特徴でしょう。

この当時、小樽築港機関区・・・というか北海道には、C12は6、38、64号機のわずか3輌のみの在籍で、いずれも手宮駅での入換仕業でした。その昔は、標津線、湧網線、渚滑線、興浜北線、富内線で旅客・貨物牽引に活躍していたものです。今や、どの路線も廃止されておりますが。

 

昭和7(1932)年から22(1947)年の16年間で国鉄向けには293輌が製造(国鉄発注分は282輌で、後に国鉄編入されたのが11輌)されましたが、その間に設計変更はほとんどなく、製造年代による外観上の違いはありません。唯一、アーチ管の有無で、37号機までと38号機以降のグループに分かれる程度です。

簡易線向けが災いして日中戦争勃発後には軍供出により101~160号機の60輌が1メートルゲージに改軌の上、大陸へ送られ(後に追加で94号機と168号機がジャワへ)、二度と日本の地を踏むことはありませんでした。