江別の鐵様の画像につき、転載はご遠慮ください。
昭和50(1975)年5月 仙台市東北鉄道学園
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C611 機関車データベース (形式C61) - デゴイチよく走る!
せっかく国鉄自身が保存していた1号機でしたが、JR東日本はばっさり解体してしまいました。梅小路に2号機があるから「ま、いっか」って感じだったのでしょうか。現在、復活した20号機はいいとしても、やはり1号機というプレミアムなナンバーはそれだけで一味違うような気がします。
C61は今更言うまでも無く、余剰だったD51のボイラーを転用し、それにC57相当の新製足回りを履かせた造りになっています。その上で従輪は1軸から2軸として、これはD52のボイラーを流用したC62と共に日本初のハドソンとなりました。
戦前・戦中の貨物輸送至上主義から一転し、戦後は旅客輸送が激増したため、旅客用機関車の増備が急務でしたが、C57・C59の増備以降(C58は客貨両用機なので、急を要しなかった)、GHQからのお達しにより新造車は製造できなくなったため、余剰となっていた貨物用機関車であるD51とD52を旅客用機関車に改造して対応しました。新製はアカンが改造ならヨシということです。C59の増備で廃車となってC53ですが、流石に軸重が重く整備も大変、しかも性能的にはC59に劣るということで、廃車体を復活させてまで旅客用機関車を賄うことにはならなかったようです。
C61とC62は共に40輌の製造で計画されましたが、その後、重幹線へ多く投入することとしたため、C62は49輌、C61は33輌に変更されました。同じハドソンとは云え、不足する旅客用機関車の増備のために製造されたC61・C62と、余剰となったC59を軸重軽減して取り敢えず亜幹線で使えるようにしたC60とでは、その誕生となる背景には差がありました。
C61、C62の最大の特徴と云えば、ストーカーの装備でしょう。世間体にはストーカーというと物凄いネガティブな言葉ですが、自動給炭機のことです。日本の蒸機メーカーでは、すでに戦前から朝鮮鉄道や南満州鉄道の大型機関車に搭載していたものですが、狭軌であるがためにそれよりも一回り小ぶりなC61やC62には、小型のものを新たに開発して搭載しています。しかし完成が間に合わず、C61、C62とも落成後に搭載されました。ストーカーは習熟するまでは扱いに苦労したようですが、扱いに慣れると機関助士は投炭の苦労からはだいぶ解放され、その後、大型機関車のD52やD62やまた極く一部のD51にも装備されるようになりました。現役復帰したC61 20ももともとストーカーは装備していましたが、諸々の理由により撤去されています。重油併燃だし。
C61とC62はほぼ同時に製造に取り掛かりましたが、C61が一カ月半ほど先行して誕生しました。つまりC61が日本初のハドソンということになります。C62の落成が遅れたのは製造上の問題ではなく、工場の労組が暴れたためだそうです。共に1号機は試作機という位置づけで、2号機以降とは外観に異なる部分はあります。
顔が写っていない、江別の鐵様が撮影した1号機ですが、2号機以降とはまず炭水車が異なります。1号機はC59やC60同様、後ろに切り欠きのない形状です。またランボードの前端がスロープへと変わる部分では、1号機ではC60ほどではありませんが、若干垂直に落ちてからスロープとなっています。2号機以降は前端からすぐに斜めになっています。私に分かるのはその2点くらいでしょうか。