ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

岩内駅

dd51 1135様の画像につき、転載はご遠慮ください。

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昭和60(1985)年2月24日

駅前には多くの自家用車が駐車していますが、2輌編成の列車にはどれだけの乗客が乗っていたのでしょうね。私は岩内線には乗車したことも撮影したこともありません。なので体験談は皆無です。ただ、駅構内は広いので、かつては水産物の出荷で大いに賑わっていたことは想像できます。

鉄道ファンとして記憶に留めておきたいこととして、茅沼炭鉱の茅沼炭化砿業専用線の存在があります。炭鉱の最寄り駅である発足(はったり)と国鉄岩内駅を結ぶ専用線で、そこでは古典ロコとして人気のあった8100が走っていました。更にはその茅沼炭鉱には新橋~横浜よりも3年も早くに木製の軌道「茅沼炭鉱軌道」が敷設され、石炭を輸送していました。石炭を坑口から茅沼港まで積み出すもので、人力、牛力、そして重力を利用したトロッコです。旅客輸送も機関車もありませんでしたが、日本最初の軌道と云える存在です。蝦夷が北海道と改称された明治2年に使用を開始しています。

この岩内線日本海に沿って西進し、内陸の黒松内まで結ぶ計画がありました。黒松内からは港町の寿都までを結ぶ寿都鉄道が営業していましたが経営状態は悲惨の一言で、軌道は砂利もろくに敷かれていない状態なため、脱線をよく起こしていたそうです。そんな寿都鉄道でも8100が働いており、茅沼の専用線が廃止されると、そこの2輌の8100はこの寿都鉄道に譲渡されました。車輛の廃車と新規車輛の導入という関係各署へ提出する書類作成の手間を省くためでしょうか、廃車された2輌の8100のナンバーを茅沼からの8100に付け替えてしまいました。このいい加減さがこの鉄道会社の性格を表しているようです。

ひときわ経営状態の悪い寿都鉄道でしたが、岩内線黒松内まで延伸されれば、寿都鉄道の線路を国鉄に売却できるというほのかな未来を描いていました。しかし結局、岩内線の延伸は実現せず、そして遂に台風による路盤流失により列車運行は休止となり、絶体絶命のピンチに陥ります。結局、社員にはろくに給料も支払えぬまま、なるべくしてなったという廃止を迎えてしまいます。

※「日本鉄道旅行地図帳 1号」(新潮社刊)によれば、寿都の町名は「すっつ」、駅名は「すつ」、鉄道名は「すつつ」とあります。

 

岩内馬車鉄道~岩内軽便線という歴史を持つ岩内線には、複数の鉄道の歴史も絡んでいたことになります。

因みに歌手の中島みゆきさんは岩内に6年間暮らしていました。日本海から吹きすさぶ潮風に打たれる姿が似合いそうです。当時は小学生でしたが。か~ぜは~、きた~むき~、ここ~ろ~の~なかじゃ~