ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

相生線 本岐

dd51 1135様の画像につき、転載はご遠慮ください。

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昭和60(1985)年3月23、24日

本岐駅。駅の裏手には山のように積まれた木材。相生線の建設目的が木材資源の運搬であったことが如実に分かる様な光景です。

もともとは美幌と釧路とを結ぶ釧美線の一部分であった相生線ですが、そのもっと前の計画を遡れば、池田~陸別~北見相生~美幌~網走として結ぶ計画だったのが、野付牛(北見)を通さぬとは何事じゃとばかりに野付牛に力負けして池田~陸別~野付牛~網走間の網走線(後の池北線と石北線)となったため、その代替案として計画されたものでした。もっとも、この網走線にしても最初は美幌を経由せず、網走湖西岸を回る経路で計画されていたもので、これには美幌住民も黙ってません。そこで、線路はZ字を描くように北見と網走とを結ぶ格好になったそうです。

釧美線は全線の測量までは終わっていたのですが、第一次世界大戦の勃発により鉄道建設は一旦は中断されることとなります。しかしその後の粘り強い建設運動により、何とか美幌から北見相生までの開通に成功します。更なる延伸をと運動は続きますが、昭和に入るといきなりの世界恐慌に巻き込まれ財政は悪化、更に満州事変や日中戦争と、日本はどんどんキナ臭く、どえらい方向へと向かうこととなり、地方路線の建設どころではなくなってしまいました。戦後、ようやく日本が落ち着いた頃には鉄道は物流の地位を徐々に低下させていしまい、貨物輸送が低迷する地方ローカル線は赤字経営に陥ります。もはや延伸どころではなく、存続へと問題は変化します。

計画初期の頃には、当時まだ計画段階であった雄別炭鉱に接続して釧路と結んじゃえという案もあったようですが、もしそれが実現していたとしても、石炭産業の衰退は避けようのないことでしたから、「もしも」の世界を想像したところで、相生線が生き延びるスベは、ほぼ皆無だったと云えるでしょう。

 

今日は連日続いた重たい雪掻きから解放されました。でも今夜からまた重い雪が降るとの予報で、げんなりしていたのですが、夜空に雲はあまりありません。もしかして、トンガ沖の海底火山噴火の衝撃波で気圧配置に変化があったか?今回の津波はこれまでとはメカニズムが異なるもので、取り敢えず津波と呼んだだけのようです。科学が進んだ世の中とは云っても、人間に分からないことはまだまだ尽きないようです。