ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

C61 28

SAMPUKU爺様の画像につき、転載はご遠慮ください。

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昭和42(1967)年8月20日 仙台運転所

車歴は↓こちら。

C6128 機関車データベース (形式C61) - デゴイチよく走る!

後ろ姿だけです。奥羽本線電化まで青森区で活躍し、その後、宮崎区へラッキーな異動。宮崎区では補助灯が撤去され、炭水車の前照灯はLP42へ交換、ついでにその電線は引き通し管の中に収納されます。炭水車背面には後部標識灯が1基だけありますが、もうひとつはどこに掛けるのでしょう、大きめの灯掛けらしきものが非対称位置にありますが、なんかちょっと違うみたい。

珍しく除煙板にはバイパス弁点検口が開けられていませんが、宮崎区へ異動する前にはしっかり開けられたようです。

旅客用機関車ながら、宮崎区では貨物列車の運用にもあたっていたようです。

昭和46(1971)年、青森区から宮崎区へ異動したC61は全部で6輌。2,18,19,20,24,28号機の面々でした。(2号機だけは先に鹿児島区経由で宮崎区入り。)その理由というのが会計検査院からの改善措置要求でした。つまり全般検査まで余裕のある機関車を廃車にする一方で、期限切れ間近な機関車に全般検査を通すとは一体何事じゃ、という指摘でした。昭和40年代、全般検査の費用は1輌につき500~1000万円を要したといいますから、会計検査院としては到底黙認できるものではなかったのでしょう。すでに国鉄の台所事情は怪しくなっている時期でしたしね。昭和45(1970)年には鹿児島本線の電化で鹿児島区のC61は全機6輌が廃車となり(霧島西口駅に無残な姿を晒していた機関車がそれ)、九州からC61は消えたと思われたその1年後に宮崎~延岡間にC61が奇跡の復活を果たしたのですから、ファンにとっては会計検査院様様といったところだったでしょうねえ。