ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

C62 27

SAMPUKU爺様の画像につき、転載はご遠慮ください。

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昭和42(1967)年8月5日 小樽築港機関区

車歴は↓こちら。

C6227 機関車データベース (形式C62) - デゴイチよく走る!

3号機、2号機に続き、北海道にやってきた3番目のC62です。

除煙板の点検口は縁取り無し。シールドビームではない補助灯(非常灯?)との変則2灯装備。先輪の前側はC59のものに交換されているのに注目。急行「大雪」「まりも」を山線では重連で牽引しました。「まりも」は後に函館~札幌間が分離されて急行「ていね」と名を変え、更に後には食堂車が外されて急行「ニセコ」となります。

北海道にC62が登用されたのはパワーとスピードがあったからに他なりません。パワーだけならD51でも構いませんが、北海道を代表する急行列車ですから(運用開始当時は北海道にまだ特急列車は走っていませんでした)急勾配・急曲線が連続する山線でもそれなりのスピードを出さねばなりません。そのスピードを維持するのにC62でなくてはなりませんでした。急行「ニセコ」では前補機にD51が付くことがありましたが、70km/hを出そうものならD51のキャブ内はもの凄い振動で立つだけでも大変だったそうです。その点C62は2軸従台車だったことで、安定した走りだったとか。(もちろん、それ相応に揺れはしたでしょう。)補機であるはずのD51は、鈍足故に上り勾配区間以外では後ろのC62から押されることがあったとか。

そしてC62に命を与える石炭はメカニカルストーカーで次々と火室へ送られ、機関助士の投炭作業を軽減するのに大いに役立ちました。しかし一方で、ストーカーで粉砕され粒子となった石炭は十分に燃焼することなく煙管を通り、狂ったように煙突から吐き出されるシンダとなって乗務員に襲い掛かり、乗務員はゴーグル装着を余儀なくされました。シンダがバラバラと乗務員に降り注ぐ様子は「雪の行路」に描かれています。また目に入ろうものなら、これがすこぶる痛い。こすったらダメよ。泣いて流しましょう。ツバで取るのがいいとも言われました。

東海道山陽本線のC62が見目麗しい恰幅の良い女王ならば、山線のC62は牙を剥く野獣と云えるでしょうか。