ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

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田中 泰三様とSAMPUKU爺様と江別の鐵様の画像の転載はご遠慮ください。

昭和42(1967)年8月5日 小樽築港機関区

車歴表には除煙板の切り詰め改造はこの年の3月8日とありますが、その5か月後でも未施工です。短期間だった3灯時代はC62だけではありませんでした。清缶剤送入装置がキャブから随分と前寄りに置かれています。窓からの見通しはかえって悪いのでは?

 

昭和47(1972)年6月14日 苗穂機関区

炭水車側面の上側には、幾つもの突起物があります。何でしょう?

 

昭和49(1974)年3月 鹿ノ谷駅

清缶剤送入装置は撤去されています。

4点支持の四面折れスノープラウは、おそらく68号機と同じタイプだと思います。

68号機と同じ日立製ながらも、正面ナンバープレートは68号機より少し下に付いています。形式入りだった頃には同じ高さだったでしょうね。

 

モーションプレートの凍り付きが半端ありません。炭水車の台車もなかなか。

 

昭和49(1974)年12月 追分機関区

キャブ前窓の庇が上向きです。あまり見かけないタイプです(笑)。

密閉キャブではありませんが、カーテンを張って防寒しています。運転中にめくれ上がったりしないのでしょうか。

キャブ屋根から後方に突き出た骨組み。これが何のためのものなのか、どうにも分かりません。最初、屋根上の換気蓋の開閉に絡むものなのかと思っていましたが、全ての機関車に付いている物ではありませんし、構造的にちょっと不自然なようにも見えます。

機番不明(55号機かも) 昭和47(1972)年8月6日 苗穂機関区

今更ながら、キャブ密閉化に伴う、炭水車妻面の三面折り改造の様子が分かる画像ですが、肝心の注目点は屋根後方から飛び出た骨組みです。70号機よりも更に突出しているようです。密閉化されていないキャブやC57でも一部の機関車には装備されていますし、北海道独自のものでもないようです。構造がよく分かる写真はなかなか見つかりませんし、精密模型を製作する人たちはどうやって資料を集めているのでしょう。

追記:江別の鐵様より早々に連絡がありました。「それ、石炭散水管だよ」と。石炭は塊の状態くべるのが理想なのですが、細かい粉、つまり粉炭が必ず混じっており、それは風で飛散して環境上よろしくありませんし、石炭のロスにもなります。また火室内でも十分に燃焼されぬまま煙突から排出されることもあり、全くの無駄になってしまいます。そこで水を撒いて粉炭を塊炭に付着させることによって飛散を防止し、燃料ロスも解消できます。ただし、この散水管は必ずしも備わっているわけではなく、どういう基準で設置していたのかは不明です。また、キャブの中には様々な部位へ水を送るための水まき装置が備えられており、石炭散水もそのひとつです。いやあ、勉強になります。江別の鐵様、ありがとうございました。

昭和50(1975)年9月7日 清水沢~鹿ノ谷

「SL夕張応援号」が走った時にファンが群がった稚南部(わっかなんべ)トンネルの夕張方です。複線時代の名残で、セキ車の陰には廃止された初代トンネルが顔を出しています。空車とはいえ、上り勾配を淡々と進む70号機にちょっと拍子抜け。

茨城県つくば市にとても良好な状態で保存されているようです。ただし、少なくとも正面のナンバープレートは、現役時代のものではないようです。

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D5170