ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

D51 117

田中 泰三様とSAMPUKU爺様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和43(1968)年12月25日 鹿ノ谷駅

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D51117

ギースルエジェクター機です。36輌(38輌という説もあり)が存在したギースル機の最若番になります。前から見ると細く、横から見ると逆台形のぺったらこい、変な煙突が特徴。上から見ると長円形で、前後2本の吐出管があります。オーストリアのギースル先生が発明したもので燃焼効率を高める効果が期待されました。つまり石炭使用量が減少するわけです。地元オーストリアでは普及したものの、日本では導入が遅かったこともあってか、36輌のD51が採用されたにとどまりました。もしかして特許使用料が高かったとか?ギースル機の配置は秋田区、旭川区、岩見沢第一区、追分区になりますが、中でも追分区には延べ20輌以上のギースル機が集中していました。これは、室蘭本線で2400トン貨物を牽引していたことが理由だそうです。ギースルの性能試験によれば、燃焼効率はいいものの、シンダの発生は多かったようです。

切り詰めデフ、補助灯、密閉キャブ、ギースル、ナンバーが読めないほど汚れたナンバープレート、北海道のD51にはそんな印象があります。原型至上主義派からすれば、北海道のD51はもはやD51ではなかったでしょうね。

 

ところで鹿ノ谷駅。この当時はまだ夕張鉄道が健在であり、機関区のあった鹿ノ谷駅はさぞや活気にあふれていたことでしょう。いいな、いいな、117。

 

で、追加の画像です。

昭和47(1972)年6月17日 追分駅