ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

D51 603

田中 泰三様とSAMPUKU爺様と江別の鐵様の画像の転載はご遠慮ください。

昭和42(1967)年8月5日 岩見沢第一機関区

国鉄蒸機牽引貨物列車が走った最終日、その日を241号機や465号機などと共に迎えた、栄えある機関車の1輌です。

北海道機仕様途上の姿で、補助灯もなければ除煙板の切り詰めも未施工です。エプロンは小さめ。

昭和50(1975)年8月 岩見沢第一機関区

真夏でもスノープラウを装備。

 

昭和50(1975)年10月3日 苗穂工場

国鉄蒸気機関車最後の検査出場機となり、工場ではお別れセレモニーが実施されました。高校の授業終了後、苗穂工場に電話して出場予定時刻を教えてもらい、札幌駅からタクシーに乗車してやってきましたが、セレモニーには間に合わず、まさに工場を後にしたところでした。ピカピカに磨き上げられた車体の前面には、誇らしげに日章旗とお別れのヘッドマークが掲出されていました。

 

昭和50(1975)年10月3日 白石←苗穂

もう叶わないと思っていた豊平川での蒸機の姿を、最後の最後に撮影することができました。撮影後、思いっきり手を振って見送りました。

標準レンズでの撮影なので、かなりトリミングしています。

 

昭和50(1975)年12月24日 滝ノ上←川端

そして迎えた蒸機最終日、名所、竜仙峡を往く603号機。手前の橋脚は、複線時代の遺構です。


昭和50(1975)年12月24日 夕張駅

夕張駅で朝日を受ける。この日は朝からド快晴。それだけにめっちゃ冷え込んでいました。左奥に、駅舎と停車中のキハ20系の姿があります。14日のような華やかさはありませんでしたが、訪れるファンはみな厳粛な気持ちでシャッターを切っていたことでしょう。

 

苗穂工場出場時に、煙室扉のハンドルは十字物でしたが、この日、最終列車の牽引を務める241号機に譲っています。

昭和50(1975)年12月24日 追分機関区

本来は滝川区の所属ですが、追分区が借り入れたまま返さずに最終日を迎えました。

もはや使うことのないSG用のホースを装備したままです。

 

昭和51(1976)年9月13日 追分機関区

廃車後、保存のために扇形車庫内で保存していたのが仇となり、原因不明の車庫火災に被災してしまいました。それでも前に並ぶ241号機や、後ろの465号機に比べると、焼け方が少ないことから、京都の嵯峨野に煙室辺りまでの前頭部が保存されています。その煙室扉ハンドルが、最終日に交換した241号機のものかどうかは分かりません。

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D51603