ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

乗り換えの米沢駅で

板谷峠に行くことにしました。前夜23時55分発の「ざおう57号」で上野駅を発ち、米沢に到着したのが定時5時29分。
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乗車したのは10号車のオハ12 368。上野発車時や黒磯から交代した牽引機関車はメモしていないので分かりませんが、福島からはED78でした。
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しかも、試作機関車の901号機、元、ED94 1でありました。磐越西線のED77に対して奥羽本線にはED78が配備されています。ED78は勾配用機関車としてED77に回生ブレーキを付けたもの。そのED77は支線向けとして、ED75 500番代(他のED75とは制御方式が異なる)に中間台車を設けて軸重を軽くしたもの。因みにED76はED75に蒸気発生装置を搭載したもの、といった分類ができます。お顔はED77 901を除いてみ~んなそっくり。青函用のED79も含めてED75一族と言えるでしょう。

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ここから板谷へは普通列車に乗り換えて戻るわけですが、時間があったので駅前に降り立ちます。な~んにもないさ。鉄道を嫌って、駅は町の中心から離れた場所に作られたと聞いておりましたが、まさにその通りといった雰囲気でした。

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駅構内には貨車が留置されていて、番号が面白かったのでついパチリと。どこにでもあるトラ70000。貨車の知識はまるで無く、写真はほとんど撮っていません。

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ホームに戻ると上り普通列車が入線していました。ED78 6とEF71 15の重連です。この422列車に乗車して板谷まで引き返します。

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後位のEF71は勾配用の補助機関車で、本務機のED78とコンビを組んで板谷峠を通過します。古くはE10や4110といったE形の蒸気機関車板谷峠で補機を務めていました。迫力あっただろうな。D形主体の交流機関車にあって、F級交流機関車は他にはEF70だけ。

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機関車のすぐ後ろには郵便車のスユ16 2001。オユ14に電気暖房を搭載したものですが、それ以上のことは知りません。大きな駅のホームや青函連絡船には郵便ポストがあって、そこに投函されたものもこの中で仕分けしていたんでしょうな。といっても、実はこの年の1月に、車内で郵便を仕分けする作業は廃止されておりました。因みに郵便車の所有は郵政省。

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オハフ61 2542。ぶどう色の車体とTR11が古めかしさを引き立てグッときます。このTR11はバネの種類によって旅客車用と荷物車用とがあるとか。古い木造客車を鋼体化改造した車両で、乗り心地は最悪ですが、乗車するのはこの車両で決まり。実際、乗り心地の良しあしなんか全然気にならないし分かんないし。

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オハ46 2005。スハ43系の仲間で、設計変更により自重が軽くなったためオハ級の形式を与えられたもの。基本スハ43で、細かいところではスハ43と幾つも違いがあるそうですが、私には分からん。

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オハ47 2076。これもスハ43系の仲間で、スハ43だったものを台車交換したら軽くなったのでオハ47に形式変更したもの。もともと履いていた台車(TR47)を、戦前の車両を改造して誕生した寝台車や食堂車の台車(TR23、34)と交換したわけですが、戦前製だったので当然その台車は性能が劣ります。オハ47はスハ43より乗り心地は悪化しました。でも自重が軽くなった分、長い編成が組めるようになったということで国鉄側としては言うことなし。してやったり。

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オハフ33 2581。オハ35の緩急車。長期間にわたり大量に製造されたり改造されたりで、様々な形態があります。もうわけ分からんです。それまでのスハ32系を大幅に改良し、その後の標準となった側窓の幅を1mに広げた最初の形式。何より軽量化が図られてオ級に。機関車が牽引するので、客車の重量はとても重要な要素なのであります。

とまあ、5両の客車は全部形式が異なるという編成の列車に乗り、勇躍、板谷へと向かったのでありました。その成果はポジで撮影したため、発表はず~~~~と後になるでせう。

昭和59(1984)年9月22日