両親と妹に見送られて乗車したのは急行「ニセコ」。やはり旅立ちは客車列車に限ります。しっかり車内放送の生録もしています。就職にかこつけての鉄活動です。乗車した車両はメモによるとオハ14 501。
恵比須岩ともしばしお別れ。
小樽駅に到着です。ここから牽引機はED76からDD51重連に交代します。ホームでは郵便の積み込み作業中です。他にも、ホーム上では何やら乗客がトラブルを起こしていたように思いますが、それは鉄道公安官のお仕事なのでお任せします。
機関車が解放された急行「ニセコ」と、「ニセコ」を追いかけて函館へ向かう122列車。牽引機はDD51 699。122列車は旭川発6時15分、函館着が19時48分。身悶えしそうな13時間半の運転です。
解放されたED76 502が小樽築港機関区へ引き上げます。
待機していたDD51 1045+DD51 1008が「ニセコ」に連結されます。右手には木造の建物が並んでいます。駅やその周辺には関連した施設がいくつも建っていましたね。
10年前ならC62重連とD51が先頭に並んでいた2本の列車です。
小沢駅ではDD15の雪レと交換です。3月も終わりでは、流石に駅構内の道床にはもう雪はほとんど見えません。
倶知安駅では急行「らいでん3号」と交換です。
長万部駅。奥に見えるのは室蘭行き245列車。ホームの人たちが待つ列車は何なのでしょう。下り急行「宗谷」が遅れでもしていたのでしょうか。
録音機は回っていても、本人は椅子に埋もれて熟睡のうちに函館到着です。
ホームでキハ46 6を撮影し、キハ46形式は目出度くコンプリートです。
乗車してきた「ニセコ」の最後尾に回ると、ありゃまあ、テールサインはまたもや幕すら無し。ちょっと手抜きでないかい。
この先、写真も録音もなく、当然のように記憶もありません。我に返ればそこは青森でした。
よく見ればちょっと怖い写真かも。座敷わらしならぬ、寝台車わらし。
トップナンバーに会えるとは験がいいねえ。
14M 特急「ゆうづる10号」
果たしてこの列車に乗ったのか、全然覚えていません。あるいは倹約してこの後の6206列車 臨時急行「十和田6号」のハザで行った可能性もあります。座っていけるなら12時間半くらいの乗車なんて、ど~ということのなかった時代です。「新たな人生の門出」を華々しく飾る意識なんてのもなかったし。
かくて私の社会人としての人生は、ちゃっかり鉄活動で始まってしまいました。
倶知安駅では急行「らいでん3号」と交換です。
長万部駅。奥に見えるのは室蘭行き245列車。ホームの人たちが待つ列車は何なのでしょう。下り急行「宗谷」が遅れでもしていたのでしょうか。
録音機は回っていても、本人は椅子に埋もれて熟睡のうちに函館到着です。
ホームでキハ46 6を撮影し、キハ46形式は目出度くコンプリートです。
乗車してきた「ニセコ」の最後尾に回ると、ありゃまあ、テールサインはまたもや幕すら無し。ちょっと手抜きでないかい。
この先、写真も録音もなく、当然のように記憶もありません。我に返ればそこは青森でした。
よく見ればちょっと怖い写真かも。座敷わらしならぬ、寝台車わらし。
トップナンバーに会えるとは験がいいねえ。
14M 特急「ゆうづる10号」
果たしてこの列車に乗ったのか、全然覚えていません。あるいは倹約してこの後の6206列車 臨時急行「十和田6号」のハザで行った可能性もあります。座っていけるなら12時間半くらいの乗車なんて、ど~ということのなかった時代です。「新たな人生の門出」を華々しく飾る意識なんてのもなかったし。
かくて私の社会人としての人生は、ちゃっかり鉄活動で始まってしまいました。
昭和56(1981)年3月29日