憧れの一眼レフカメラと望遠ズームをバイトで購入し、予備校生にはあるまじき心うきうきな毎日を送っておりました。で、蒸機現役時代にはかなわなかった「望遠で撮影」を実行することに。御崎へ行けば鉄原のS-205とかS-304といった生きた蒸機を撮ることができましたが、やはり国鉄形への思慕が強く、火災で焼失し屍となった追分の蒸機詣でに出かけました。
また、鉄友が現役蒸機をコダクローム25で撮影していて、その画像の素晴らしさに脳天を直撃され、記録性を重視するならポジでなければダメだ、という思いが少しずつ強まっていたこともあって、この撮影で初めて自分で購入したポジ、コダクローム25を使うことにしました。
右からDD51 682、D51 241、D51 603、D51 465と並びます。
未塗装の模型にも見えます。
苗穂工場で製造され、生涯、追分機関区で務めを果たしてきた241号機。東京への保存も決まっていました。機関区の人たちは、庫の中から引き出して救出を試みましたが、あまりにも火力が強く、何もできなかったそうです。ナンバープレート付きの煙室扉と第三動輪が追分駅近くにモニュメントになっています。
後方が追分機関区です。実は追分機関区に立ち入るのは今回が初めて。蒸機現役時代にはとうとう入らず仕舞いでした。
現役蒸機として最後に検査を受けた603号機。損傷の少なかった前頭部と第二動輪までが京都の「嵯峨野19世紀ホール」に保存・展示されているそうです。
465号機は241号機や603号機に比べてこれといった話題はありませんが、蒸機最終日を走り、保存が決まっていたカマです。火を孕む蒸機も、火に包まれてはどうしようもありません。465号機も第三動輪が追分駅前にモニュメントとして鎮座しています。
1086号機も241号機、465号機、603号機と共に蒸機最終日を走りぬき、保存が決定していたカマです。
国鉄最後のカマの1両です。39679、49648らと昭和51(1976)年3月2日の入換仕業をもって、最後に火を落としたカマでした。他の2両は庫外に留置されていたために焼失を免れました。
はるばる九州からやってきて最期がこれでは・・・言葉もありません。
DD51もやられています。
1144号機や1169号機といった、新造されて1年にも満たない機関車もありました。
感度ASA25のコダクローム25で、暗い曇天の下、暗~い気持ちでシャッターを切りました。帰りに乗った旧客の白熱灯の暗さは格別でした。
昭和51(1976)年9月13日 追分機関区