ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

「白鳥」に乗った

津軽海峡線の特急に愛称名を譲った「白鳥」ですが、若いファンは別として、やはり「白鳥」といえば日本縦貫線を走り切った列車のイメージが強いです。大阪~青森間1000km以上を走破した特急の中の特急です。北陸トンネル開通記念切手では、キハ82系「白鳥」がモデルになったほどです。(一般的にはこの切手、絵柄に多数のミスがあることで有名になってしまいましたが。)処女列車では、何の手違いでか、運転停車する駅を停車駅と思い込んだ沿線住民が大歓迎で迎え、しかしドアは開かぬまま列車は行ってしまい、住民らは茫然・・・という逸話まであります。いわゆる能生事件。運転士に渡す筈だった花束はどうしたのでしょう。駅長もさぞかしびっくらこいたでしょうね。というか、乗ろうとした乗客はいたのでしょうか。

走行距離も運転期間も長かった「白鳥」でしたが、なかなか乗る機会はありませんでした。けれどたった一度だけ乗車したことがあります。札幌への帰省を終えての帰り道でした。いつも同じルートで戻るのも芸がないとばかりに、奥羽線羽越線上越新幹線ルートで行くことにしたのです。

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青森駅 特急「白鳥2号」 クハ481-333
前夜、特急「北海4号」で札幌を発ち、青函連絡船は深夜便の石狩丸、青森からはこの「白鳥2号」の先頭車に乗車しました。前の年の11月ダイヤ改正で「白鳥」は2往復に増便されましたが、増便されたのは大阪までは行かず、福井止まりでした。乗車した「白鳥2号」はもともとの「白鳥」で、食堂車も連結した堂々の12両編成を組んでおりました。自由席の禁煙車であるこの先頭車に乗車しました。

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最後尾の車両は、青函連絡船から降りた時に確認していましたが、まずは座席を確保し、それから改めて、このクハ481-1501を見学です。

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485系1500番代は竣工後に、まずこの「白鳥」で足慣らしをし、それから渡道したと聞きます。結果的に、北海道では雪質の違いなどからまったく歯が立たず、所詮は「本州仕様」の範疇の改良車に過ぎなかったようです。北海道でのデビューでも、昭和50(1975)年7月1日から運転を開始する予定だったのが、合理化反対ストによって2週間以上遅れましたし、485系1500番代にしてみれば、北海道にはあまりいい思い出はなかったかもしれません。
北海道初のL特急として「いしかり」でデビューした485系1500番代は、当時の特急列車としては食堂車はおろか、グリーン車すらないたった6両ぽっちのチンケな特急という印象でした。それ故に711系急行「かむい」を無理くり特急に格上げして特急料金を踏んだ食ったと思い込んでいました。だから、冬期間に雪にやられて運休や短編成化と憂き目に遭った時には「ざま~」と心の中でつぶやいてしまいました。
でも、本州に戻ってからは、本来の特急の姿となって東北路、北陸路などの積雪地域を縦横無尽に走破していたようですから、適材適所の重要性を改めて認識させられます。
新潟からは「とき308号」に乗り換えました。初の上越新幹線乗車です。この時、うっかりホームに財布を落としてしまいましたが、親切にも拾ってくれた方がいらして、事なきを得ました。危ねえ危ねえ。お尻のポケットに財布を入れるのはダメですね。落としても気づかないし、盗まれても分からない。
「ひかり」タイプの「あさひ」に対して「とき」は「こだま」タイプの各駅停車です。実はこの一連の乗車では、車内の生録をしておりまして、各駅ごとの車内アナウンスが流れるということで「とき」を選んだ次第です。

平成13(2001)年3月ダイヤ改正で「白鳥」は飛び去ってしまいましたが、廃止を前に、ビデオ撮影の依頼を受けて真冬の奥羽本線で「白鳥」を狙ったのも、今はもう随分前のこととなり、いささか懐かしいと思えるようになっています。

昭和58(1983)年5月5日