ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

つるみせんフェスティバル

「つるみせんフェスティバル」がどういう催しものであったか、よく覚えていません。ただ、鶴見線にはモールなどを着飾ったクモハ12や101系電車が走り、弁天橋にある電車区では車両の撮影会があり、そして弁天橋駅すぐそばの日本鋼管ではお祭りが催されたことだけは覚えています。

まずは国道駅クモハ12を狙いますが、直前に定期列車が海芝浦から到着します。
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鶴見川を渡る101系。鶴見川と言えば、ドラマ「男女7人秋物語」の中で、鶴見川に突き落とされた手塚理美さんの姿を思い浮かべてしまいます。掃き溜めに鶴、ならぬ鶴見川に理美。

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対向のホームで下り列車を待つ大勢の人たちは、つるみせんフェスティバルに訪れた人たちでしょう。家族連れが多いです。

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初めて見たクモハ12の2両編成。この当時でも、都心部で旧型国電を見られるのは奇跡のようなものでした。保存鉄道かと思ってしまいます。

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クモハ12052+クモハ12053。主電動機を唸らせて発車してゆきました。

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弁天橋→浅野
日本鋼管の構内にある踏切での撮影です。普段は社員や関係者以外、立ち入ることはできません。関係者であったとしても、こんなところで鉄ちゃんをしていたら、怪しまれること間違いないでしょう。何本も線路がありますが、もともとここには製鉄所がありましたから、貨車入換などのヤード跡でしょう。グーグルマップを見ると、本線よりの線路は現在でも生きているようです。雑誌「THE RAIL」の1981年SPRING号には「日本鋼管(株)鶴見製鉄所の機関車」の記事が掲載されていますが、晩年は駅のホームからでも撮影は禁止されていたそうです。製鉄所は撮影管理が厳しいですね。

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バブル景気で沸いていた時代ですから、会社も大々的にイベントを積極的に催していたのでしょう。社員の家族が圧倒的に多いのですが、部外者も参加できたようです。こういうイベントでは、まず若い社員が半強制的に参加させられます。休日出勤手当は勿論出ません。

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弁天橋駅に停車中のクモハ12。ホームにはカメラを構えている人の姿が見えます。今、駅前の様子はガラリと変わってしまったようです。駅前の、昼しか営業しない食堂に一度だけ入ったことがあります。注文したカレーライスのカレーが、赤味が全くない、まっ黄っ黄色で、なるほど鶴見線カラーでした。妙に小麦粉っぽい味だった印象も未だに新鮮です。

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弁天橋駅の鶴見方の踏切より駅を見ます。この踏切を渡ってすぐ先は会社の敷地です。海芝浦駅のようなところです。

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同じ場所でクモハ12を迎えます。窓から手や顔を出す乗客はほとんどいません。ファンよりも家族連れが多く乗車していたようです。後に、窓には横桟が取り付けられ、手も足も出せなくなりました。

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もうひとつ先の一般道路の踏切から、中原電車区を見ます。本家の中原電車区とは随分離れており、弁天橋電車支区といったところでしょうか。101系の天下です。

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電車区では車両の撮影会をやっていたので、この後に立ち寄りました。待たれよ次回。待たなくてもいいですけど。

昭和63(1988)年9月18日

平成2(1990)年に即位の礼が催されましたが、それに反対するデモが渋谷地区で大々的に行われました。共産党街宣車が、頭がおかしいんじゃないかというほどのヒステリックな女性の声で、一帯に騒音をまき散らしておりました。「天皇制反対!」「戦争反対!」などと、有りもしない制度や空想の世界に抗議するズッコケぶりを発揮していましたが、その妄想ぶりは今でも共産党の伝統としてしっかり受け継がれているようです。病気とバカは伝染しますからね。この当時、各種選挙では敢えて共産党の立候補者に投票していました。重箱の隅をつつくような嫌らしさを大いに発揮して、自民党の暴走に歯止めをかけてくれる期待感があったからです。でも今の共産党は、何の進化もなく、国益を害する外敵に対して沈黙するだけのヘタレで気持ち悪い存在に落ちぶれており「共産党ホイホイ」が商品化されているなら、是非とも使って駆除したいところです。因みに先の即位の礼では、それに反発するゲリラ活動が活発化し、あちこちで事件が起こっています。今のご時世では、海外からの犯罪者も紛れ込んでいますから、警備・警護は益々大変になるでしょう。是非とも「共産党ホイホイ」とともに「不逞の輩ホイホイ」も商品化して欲しいところです。いや、マジで(笑)。