ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

C55 26

matuno kura が撮影した画像ではないので、転載はご遠慮下さい。

昭和42(1967)年8月29日 宮崎駅

二次型流線形からの標準化改造車です。いわゆる流改で、20~40号機が該当します。キャブの屋根の丸みと裾の斜めカットにその名残が見られます。流線形は昭和初期の世界的ブームに乗って設計されただけのもので、工学的にも技術的にもほとんど裏付けも意味もなさず、むしろ検修や点検、そしてキャブ内環境に悪影響しかなかったと酷評されました。唯一の効能として、煙がキャブ内に入り辛い流れとなったとは言われています。戦後間もない頃の写真を見ると、足回りの外皮がことごとく外され、いささかだらしない恰好になっています。外観だけ取り繕ったようなデザインに、それみたことかと揶揄されそうですが、国鉄の設計陣は最初から乗り気ではなかったそうです。お上からの鶴の一声というヤツだったのでしょう。とは言われれても、見た目はやはりカッコいい。流改機では最後に残った30号機が、保存予定だったのにもかかわらず誤って解体されてしまいましたが、そんな不手際がなかったら、今頃は流線形に復元されて小樽の交通博物館で異彩を放っていたかもしれません。いや、大宮の鉄道博物館に引き取られていたかな?

機関車後方に架かるテルファクレーンも当時の駅の姿を物語る重要なストラクチャと云えるでしょう。

車歴は↓こちら。

C5526 機関車データベース (形式C55) - デゴイチよく走る!

C55 13

matuno kura が撮影した画像ではないので、転載はご遠慮下さい。

昭和42(1967)年6月7日 原田駅

 

昭和42(1967)年8月14日 若松機関区

屏風が前傾したK-2タイプの除煙板が特徴的です。またK-2タイプはこの13号機が唯一の採用です。C61 13が装着していたKG-1もまた同様の前傾屏風となっており、13号機同士の縁でしょうか。(違うと思うけど。)C54からC55となって近代化された外観のひとつが一体型ドームで、それまで蒸気溜めと砂箱は別々のドームに収納していました。C54では、軸重バランスの関係から砂箱を蒸気溜めに接近させた位置に置きましたが、どうにもこれが不評を買ってしまった。で、C55では接近した両者を一つのカバーで覆ってしまうわけですが、このデザインが結構いい感じ。C56を除き、その後の標準スタイルとなりました。またキャブ前妻は後退角を持たせた三面折とし、前方の視野角をちょっとだけ拡大したのと同時に、夜間運転におけるキャブ内照明の反射をなくすことができました。また前窓を長円から方形に変更したことや常設された庇、またキャブが小型化されたことなどと合わせスタイリッシュな印象を与えます。このキャブは一部のC51で換装されたそうです。ただ、この三面折キャブは旅客用のC55、C56、C57、C59(とその改造機のC60)だけの採用に終わり、貨物機のD51やD52など、また貨物機改造のC61やC62でも採用されませんでした。

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C5513 機関車データベース (形式C55) - デゴイチよく走る!

C55 10

matuno kura が撮影した画像ではないので、転載はご遠慮下さい。

昭和43(1968)年8月19日 人吉機関区

九州機ですが門デフではない通常の除煙板を装着し、ランボード縁に白は差していません。九州機らしからぬ姿に見えます。10号機はかつて秋田区に所属していた機関車で、過去記事で触れましたが3、19、55号機ら同僚と共に宮崎区へ転属されました。その後の経歴は4輌ともそれぞれに異なりますが、鹿児島区に配属された3号機だけは門デフに換装されたものの、他の3輌は通常除煙板のままでした。その対応の違いは機関区の方針によるものだったのか、それとも施工タイミングの問題だったのか、真相は分かりません。それにしても炭水車に積まれた石炭の山はちょっと盛り上げ過ぎでは?

 

昭和44(1969)年11月27日 吉松機関区

除煙板の屏風はスロープ部で水平に継ぎ足しているように見えますが、その箇所はアングルで裏当てをしています。1号機でも非公式側の除煙板だけは同様となっています。19号機も両側の除煙板でアングルを裏当てしていますが、屏風は継ぎ足しされているようには見えません。どのような経緯でこうなったのかちょっと気になります。鋼板の歩留まりを良くするために敢えて2枚板を溶接したとも考えられなくもありません。

煙突横にはリンゲルマン濃度計を取り付けたステーの跡らしきものが見えます。ステーには、除煙板上部ステーから上方へ伸びるものと、煙突横からL字型に取り付けられるものの2種類がありました。リンゲルマン濃度計は九州地区や機関士の技量を競う運転会の時くらいしか使用されなかったようですが、数量から言えばそれなりのまとまった数はあった筈。鉄道部品として市場には出ていないのか現物を拝んだことはありませんが、一体どこへ消えちゃったのでしょうね。

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C55 6

matuno kura が撮影した画像ではないので、転載はご遠慮下さい。

昭和42(1967)年4月25日 若松機関区

汽車会社製造による3番目のC55で、5号機の弟分になります。とはいえ、番号板の取り付け高さ、煙室戸取り輪の形状、煙室戸開閉取っ手の位置などに相違が見られ、表情としてはやんちゃな弟然としています。除煙板はK-7タイプで、上部ステーは2号機と同形式です。C55の特徴の第一は水かき付きスポーク動輪ですが、実はこれ、C55が最初の採用ではありません。「明治の機関車コレクション」(機芸出版社)の写真を見ると、アメリピッツバーグ製の1690形式、3400形式が小さい動輪ながらもしっかりと水かきが確認できます。両形式とも明治29(1896)年に輸入された機関車ですから、国鉄技術陣がその効果に気づいていれば6700形式に始まる国産標準型機関車に採用し、C51や8620の一部がボックス動輪に履き替えることもなかったのではなかろうかと考えてしまいます。因みに竣工順では長男坊は8号機(1935年2月9日)であり、以降、9(同年2月14日)、4(同年3月28日)、1・2・5(同年3月29日)、3・10(同年3月30日)、7号機(同年3月31日)の順となり、10番目が6号機(同年4月20日)でした。

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C556 機関車データベース (形式C55) - デゴイチよく走る!

C55 5

matuno kura が撮影した画像ではないので、転載はご遠慮下さい。

昭和42(1967)年8月25日 吉松機関区

3号機と並んで番号板の位置は高めです。2号機と同じK-7タイプの門デフながら、上部ステーの前部の形状が異なっています。リンゲルマン濃度計は九州機で多く見られましたが、鹿児島鉄道管理局の機関車は取り外されるケースが多かったようです。デザインの近代化を図ったC54ですが、炭水車はC53のものを流用したためリベットが目立つこととなり、C55では新設計の溶接構造となり、側面はスッキリしています。C51は国産初のパシフィック機でありながら、当時としては申し分ない出来上がりだっただけに、その最終改良型であるC57が誕生するまで、C55ですらその途上の一形式にしか過ぎなかったことに、技術革新は一夜にして遂げるものではないことを痛感します。それだけに、そんなセオリーから逸脱したAI技術がおそるべき速度で進化を遂げ、果たしてそれがどのように人間社会へ影響を及ぼすのか、不気味で仕方がありません。

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C555 機関車データベース (形式C55) - デゴイチよく走る!

C55 3

matuno kura が撮影した画像ではないので、転載はご遠慮下さい。

昭和43(1968)年2月21日 中間駅

九州での雪景色がどれだけ珍しいのかは分かりませんが、そう何日も継続して見られるものではないでしょう。あまりの寒さにカメラマンは手が震えてしまったのでしょうか。ちょい、ブレています。暖房管から漏れる蒸気が寒さのほどを物語っています。門デフはK-7タイプに似ていますが鹿児島工場の施工によるKG-2タイプで、この3号機のみの形式となっています。上部ステーに折れが無くスッキリした印象です。

樋口慶一氏による「東北の蒸気機関車ー青森を中心として 上巻」(プレスアイゼンバーン)には秋田区時代の姿が写真に収められています。除煙板はもちろん通常のもの。秋田区所属ながら奥羽本線から青森に顔を出す運用があったため、樋口氏は昭和30(1955)年2月1日現在で秋田区に配置されている3、10、19、55号機全機を青森で撮影されています。それまで各地に散らばっていたC55は北海道と九州に集約されるのですが、昭和33(1958)年3月、秋田区のC55は全て宮崎区へ転属となります。北海道の方が近いのに・・・。秋田区時代からの外観上の変化として、前端梁にあったスノープラウ取り付けボルト穴が埋められ、暖房管が前方へ引き通され、キャブ前方のランボード上には清缶剤送入装置が設置され、お決まりのリンゲルマン濃度計が煙突横に取り付けられています。余談ですが、C54の9号機が秋田区に新製配置され、奥羽本線でC51との性能比較がなされたようです。

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C553 機関車データベース (形式C55) - デゴイチよく走る!

C55 2

matuno kura が撮影した画像ではないので、転載はご遠慮下さい。

昭和42(1967)年8月25日 吉松駅

C50の記事を終えて今回からC55に入ります。C51、C52、C53、C54は写真も記事もありません。C53は梅小路蒸気機関車館時代のものはありますが、今更なので割愛です。

C54の近代化された外観から更にブラッシュアップされたスマートなプロポーションがファンを釘付けにします。旅客用機関車にふさわしい洗練された姿に水かき状のウェブによりリム強化が図られたスポーク動輪というマッチングも、古さよりも美しさを強調するばかりです。などと持ち上げてしまいましたが、製造はわずか62輌。289輌製造された先輩のC51をカバーするにはあまりに少数です。21輌の流線形も大いに話題をさらいましたが、技術的な裏付けなど全く無い、デザイン重視のカバーに覆われた構造は現場から嫌われ、結局、戦後になって標準型に改造される始末。

とはいえC55の性能そのものは期待通りのものであったため増産が進められるのですが、ここで国鉄はC55に改良を加えることとし63、64号機でそれを織り込むことになります。ボイラー圧力を14kg/cm²から16kg/cm²に昇圧したり、D51で初めて採用されたボックス動輪をC55にも採用した結果、性能面・外観面ともC55とは一線を画す出来となったため、別形式のC57となって増備が進められます。結果、C55の62輌に対してC57は201輌の大所帯を構えることになります。誉れ高きライトパシフィック機は、第一走者C51(快調)、第二走者C54(ちょっとずっこける)、第三走者C55(立ち直る)、アンカーC57(快調)とバトンが渡され完成形のゴールを迎えるのでした。C53とC59はパシフィック機ながら大型なので別系統と云えるでしょう。

前置きが長くなりましたが、さて2号機。1号機と共に北海道は小樽築港機関庫に新製配置されますが、後に九州へ転属となります。九州機らしく門デフ(K-7タイプ)を装着してスピード感に磨きがかかります。北海道も雪対策で切詰デフにするよりも門デフを採用すべきではなかったでしょうか。門デフ機が北海道にやってくると、その門デフ(長工デフも)すら切詰されていましたけど、対抗心でもあったのでしょうか。

なんだか尻すぼみの記事になってしまいました。

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C552 機関車データベース (形式C55) - デゴイチよく走る!