ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

ヨ5800

昭和59(1984)年7月29日 8:39~41 行橋駅

列車待ちをしていたら貨物列車が到着しました。「にちりん5号」を撮影しようと思っていた私にとっては邪魔な存在でしたので、列車の最後尾に回り込んで「にちりん」の最後尾を撮影することにしました。

ギリギリ間に合いました。まあ、どうでもいい写真っちゃあどうでもいいんですけどね。今までの流れ通り画質も悪いですし。などと思いつつもこの写真を見ていたら、車掌車の屋根が妙に低いことに気付きました。拡大して車番を見ると「ヨ5814」と読めます。調べてみると、ヨ5000形式ヨ5050番代からの改造車ヨ5000形式ヨ5800番代なんですね。北九州地区の運炭列車に運用された専用車掌車ということですが、石炭列車廃止後は専用解除が解けて、普通の貨物列車の運用にも就くようになったんだとか。それにしてもこのタンク列車、ホッパー車なのでしょうか。貨車にはからしき疎い私にはさっぱり分かりません。

俯瞰症の病状

昭和59(1984)年5月5日 3544D ニセコ←比羅夫

俯瞰症だった頃の作品です。曇天下で陰鬱な雰囲気、そして何とも捉えどころのない絵柄になっています。使用したレンズは28mm。風景を撮りたかったのか列車を撮りたかったのか何とも曖昧で、手前の雪の斜面ばかりが目立っています。苦労して斜面を登り(春先の雪は足を取られて歩きにくい)ようやく見えたニセコアンヌプリと尻別川を両方ともガツンと入れたかったのでしょうが、それ以前に列車だろ、というのが鉄道写真のあるべき撮り方でしょう。

で、トリミング。最近アップした写真同様、露出不足なためトーンカーブをド~ンと上げているので、何とも奇妙な仕上がりになっています。面目ないです。この画角のまま、もう少し空を入れて、手前左側の斜面の雪をフレームアウトさせた方がいいですね。これで列車の存在感がだいぶ出ます。
ビデオでは4Kになって画質が向上すると、画面遠くを列車が小さく走ってゆくという撮り方をしがちです。特に初心者にこの傾向が多く見られます。こういう映像は正直つまらない。「風景よりも列車をしっかり見せろ」と思っちゃう。じゃあ、どうするか。風景を入れたい気持ちと列車をしっかり見せたいという両方の気持ちを汲む撮り方はズバリ、ズーミングとパンニングです。ズームインで列車にスポットを当て、ズームアウトで周辺の風景を見せる。ズームインとズームアウト、どちらを先にどちらを後にするかは様々な事情で決まるでしょう。そしてズームインと組み合わせることで躍動感を表せるのがパンニングです。まず広角で風景を見せて、列車がフレームインしたらズームインして、列車の姿をある程度大きく捉えたところでパンニングして列車を追いかけ、適当なところでストップし、列車をフレームアウトさせる。などと書くと簡単ですが、実際にはそこそこいい機材じゃないとこういう撮影はできません。カメラだけでなく三脚も非常に重要です。またズーミングという作業を考えると、今流行りのミラーレスカメラでは対応できません。フルサイズなので高倍率のズームレンズは存在しませんし、ズーミングそのものがスムーズにできるかも疑問。その点ビデオカメラであれば20倍という高倍率で、ズーミングしてもフォーカスがブレることはありませんし、サーボズーム(電動ズーム)もスムーズ。それなりのカメラだとサーボズームも、シーソーの押し加減でズーミング速度を変えられるので、手動でズームリングを回したかのようなスムーズな加減速が可能です。
ちょっと専門っぽくなってしまいましたが、要は何を見せるか、ですね。俯瞰撮影の場合にはどうしても景色の広大さ雄大さを意識してしまい、列車の存在感は二の次になりがちです。しかしながら蒸機であれば煙、ステンレス車輛であれば光の反射、派手な塗色なら風景から浮いた配色、というように、たとえ列車は小さくても、その存在感を示すことは可能です。ただそこには偶然の要素が多分にあるので、俯瞰症の人はそこを読まないと「ウィリーを探せ」的な写真ばかりを量産しがちになります。俯瞰撮影ではシャッターをつい多く切ってしまいますからね。
因みに記事の写真をもしもビデオで撮影するとしたらこうなります。まず画面奥にズームインした状態で列車をフレームインさせます。フレームインしたら列車の先頭部を追いかけます。手前のカーブに差し掛かるあたりでズームアウトして最広角まで持って行き、列車が木立の中を通過してフレームアウトさせます。前述した撮影要領とは逆になります。ズーミングの配分は結構難しいので、予め練習する必要がありますが、これが見事に決まった時の快感といえばそれはもう、自分はプロじゃないかと錯覚するほどですよ。

撮らないよりはマシ

社会人1年目、正月休みの帰省から職場へ戻る途中での撮影。青森を早朝の5時過ぎに発つ急行「十和田54号」に乗車しています。上野着が夕方の5時過ぎ。およそ12時間の汽車旅です。「十和田」というと夜行急行のイメージが強いですが、臨時便ながら日中にも走る便があったのです。

13:35着の平止まりのL特急「ひたち7号」。「十和田54号」は10分ほど停車するので、ホームへ降りて車輛を眺めます。それにしても酷い写真です。

モハ483-3

おお、483系ではないですか。東北・常磐スジでしか見ることができません。モハ482-3も撮っていますが、このように酷い写真なので割愛させて頂きます。

サシ481-17
「ひたち」に食堂車なんてあったっけ?と思いながら時刻表を見ると「食堂車営業休止」と記載されています。「ひたち」には9輌編成と12輌編成があり、食堂車が連結されているのは12編成の方。東北方面の電車特急の編成は時代と共に変化してきましたが、この二種類の編成は昭和53(1978)年10月2日のダイヤ改正から標準となりました。
いずれにしても写真は撮ったものの、何ともお見苦しい仕上がりで恐縮です。さて今ならどう撮るか。西陽をガンガン浴びているので、日陰との明暗さは非常に大きく、となれば日中シンクロするか?いやいやそんなんで解決できるほど甘くはありません。やはりRAW撮影しかないでしょうねえ。当時なら軟調仕上がりのベリクロームを使うという手があったかな。モノクロネガですけど。

無事に上野駅に到着です。EF80は水戸からの牽引でした。

46年前の千葉駅

昭和55(1980)年10月17日 千葉駅

千葉駅構内から本千葉駅側へ向けて外房線・内房線を撮影したものです。画面左の駅名標には左が「西千葉」右が「本千葉」となっており、これでカメラを向けた方角が分かりました。もともと千葉駅の周辺を歩いたことがなければ改札を出たことすらなく、街並みがどうなっているかなんて全く分かりません。けれどもこの写真を見る限り、今とは全く様子が違うことだけは分かります。とかく都会はビルが建ち並び、そのビルが風景を覆い隠してしまうことがあるので、定点撮影で街並みの変遷を見てみよう・・・というのはなかなか難しいことです。空撮ならば高層ビルであっても邪魔にはなりませんから、まだ見比べようはあるでしょう。その点、Googleストリートビューは様々な視点で見比べることができるので、資料的価値は極めて高いように思います。ストリートビューに馴染んでしまうと、ついうっかり自分の写真でもカーソルを置いてドラッグしちゃったりして。
46年前のこの日は会社の入社面接(入社試験はなく身体検査と面接のみ)を受けた翌日で、心晴れやかに東京ミニ周遊券を使って大いに撮影を楽しみました。終わった入社面接の結果をあれこれ考えても仕方ありませんからね。首都圏の鉄道の知識はほぼゼロでしたので、何の計画も立てずに気ままに乗ったり撮ったりしていました。そうそう前日の入社面接が終わった後には、新宿のヨドバシカメラに立ち寄りKRやスライドボックスなんかを調達したりもしました。お陰で帰りは荷物が増えてしまいました。
それにしても、といつも思うのですが、もう少し車輛だけでなく駅周辺の様子も撮影していればブログのネタに使えたのにと、やっぱり後悔に行きついてしまいます。歳を取ったせいでしょうかね。で、同じことを繰り返し記してしまうのもそれが原因でしょうかね。

逆光撮影

昭和54(1979)年11月10日 試運転 苗穂←札幌

逆光写真なので、これまでまともに見てはいませんでしたが、今になって拡大して見てみるとそう悪くないなと思いました。ゴーストもフレアもいい感じ、とでも言いましょうか。お天道様が新星キハ183系の前途を祝福しているかのように私は感じます。かつて写真撮影の教則本などでは逆光撮影は避けるべきものと否定的に扱われていました。けれど今では写真撮影の手法のひとつと受け入れられているように思います。カメラだけでなくレンズ性能もフィルム時代から進化しており、そのため逆光時の描写が変わってきているのも理由のひとつかもしれません。ただ、記録性を重視する写真ならば逆光撮影は過去も現在も、そして未来でもNGでしょう。
日の丸構図というものがあります。主題をフレームの中央に据える構図ですが、鉄道写真ではド素人がやりがちな面白くない構図の代名詞のように使われてきましたが、今ではプロの写真家が素人にお勧めしているというのだから驚きました。もしかするとプロを自認するそのカメラマンが素人レベルなのかもしれませんけど。ただ私自身、日の丸構図は積極的ではないにしろ、意識して使うことはありました。ビデオ撮影の話になりますが、遠くに姿を現した列車を望遠で狙い定める段階では日の丸構図とします。そうしないと列車の存在を視聴者に確認してもらえないからです。やがて列車の接近に伴いズームアウトして列車がフレーム一杯になった時点では日の丸構図ではなく、7:3構図に近いものになります。また、水平線や地平線を画面中央の高さに置くのも避けるべき構図と指摘されますが、私は状況によって積極的に使用します。というのも、ビデオ映像を作品で使う場合、画面下にテロップを入れることが多々あります。そのため、主題となる列車にテロップがかからないように、地平線・水平線を中央の高さに置くと構図が安定するのです。いずれにしても「写真はこう撮るべし」というプロカメラマンは、自分がそう思っているだけ、信じているだけのことなのです。カメラは傾かないように水平に撮りましょう、というものもただの解答のひとつにしか過ぎず、大いに傾けることでしか表現できないことだってあるものです。
いずれにしても、YouTubeで高説を垂れるプロカメラマンは、自分の世界観で話しているに過ぎず(その個性がクライアントの気を引き、プロならしめているのかもしれませんが)、それが素人にとって参考にはなるかもしれませんが正解であるかどうかは別問題です。素人だって個性があり「こう撮りたい」という思いはあるでしょうから、それを否定するようなプロの「こう撮るべし」は無視しちゃえばいいのです。
とはいえ、技術的な部分ではプロカメラマンの言い分は間違いないでしょうから、それは素直に受け入れて勉強するしかないでしょう。

同じ日に撮影した逆光写真ですが、これはつまんない。ただのフレアまみれの失敗写真です。だから逆光写真は難しいのです。とはいえ、この写真はたとえ順光であったとしても面白くはないです。完璧な日の丸構図だからです。自分で言うのだから間違いありません。とはいえ、同じ構図のまま少し遅れてシャッターを切れば、ちょっとは面白くなります。

急行「さちかぜ」

昭和50(1975)年7月17日 急行「さちかぜ」 札幌駅

国鉄北海道の電車と云えば711系しか存在しなかった時代、711系は普通運用の他に急行運用も担っていました。その代表格が急行「かむい」です。札幌と旭川とを結んでおりました。711系はその形式番号が示す通り近郊型の車輛ですが、座席配置は急行形455系に準じたものであり、一部で云われる遜色急行とは一線を画します。そしてもうひとつ忘れてはならない711系急行列車がこの「さちかぜ」です。もともと「さちかぜ」という愛称名は東京~博多間を結ぶ寝台特急列車に採用されたものですが、同区間を走る「あさかぜ」と名称が似ており誤乗が絶えないということからわずか1年半で姿を消しました。それから13年の時を経て復活したのがこの急行「さちかぜ」です。札幌~旭川間をノンストップで走り、同区間を走る気動車特急列車よりも速いと評判でした。昭和50年、北海道にもいよいよ電車特急が走るということで485系1500番代が投入されることとなり、ヘッドマークには「さちかぜ」の文字が記されていました。しかし登場した北海道初のL特急でありかつ電車特急の愛称名は「いしかり」。特急「さちかぜ」は幻の愛称名となりました。写真は下り「さちかぜ」の最終列車です。階段にはカメラを構えるファンの姿があります。残念ながらサボは撮っておりません。当時は車輛を撮影することだけしか考えておらず、その周辺を記録する意識はゼロでした。蒸機に熱を上げる中で「さちかぜ」を撮影した記憶はまるでないのですが、木曜日の夕方にわざわざ札幌駅で写真を撮っているということは、それなりに意識していたのでしょうね。

旭川へ向けて札幌駅を後にする最終下り「さちかぜ」・・・と思われる列車。

今はどうなった

昭和57(1982)年2月6日 16:41 666列車 清水埠頭~巴川口

遠くに富士山を望み、夕刻の貨物列車が清水駅へ向けて通過します。陽は傾きかけ、東からは丸い月が昇ります。列車が通過しているのは巴川橋梁で、一見ただの鈑桁に見えますが、2基の塔に挟まれた部分は昇降可能な、いわゆる可動橋となっており、通常、この桁は上昇し船舶が航行できる状態にあり、列車が通過する時だけ下降しておりました。その操作はおそらく塔にへばりつくように設置された白い小さな小屋の中で行っていたのでしょう。清水港線の廃止後、この橋梁を保存する動きもありましたが、結局は老朽化により撤去されてしまいました。写真撮影から44年半が経過し、今はどうなっているのだろうとストリートビューを見てみましたが、撮影した右岸の河岸道路は立入禁止となっており、写真と比較することはできませんでした。ただ、写真に写る建物はことごとく一新され、また巴川口駅跡は静清浄化センターとなっており、当時を偲ぶものは何も残っていないようです。清水市は現在、静岡市清水区と行政は変わり、鉄道沿線も街並みもすっかり変わったようです。私が勤務していた会社も今は無く、勤めていた職場の人たちもすっかり老けたことでしょう。