列車の最後尾。今時の列車は気動車や電車ばかりで、前も後ろも同じ顔をしています。しかしかつて全国で数多く運転されていた客車列車では機関車がプッシュプルで運転する場合を除き、最後尾には客車の顔がありました。まあ、それを撮影する人は少なかったと思いますが、今回はそのごく一部を紹介させて頂きます。


昭和59(1984)年9月23日 列車不明 秋田駅
ブルートレインの元祖、20系客車です。「走るホテル」と当時は絶賛されるほど、外観も車内も従来の客車とは大きく異なりました。展望室の広い窓は、鉄道ファンでなくても思わずが立ち入りたくなる場所です。残念ながら私は入ったことがありません。ホームベース形のテールサインが優等列車らしさを表すアイテムの一つでありましたが、その後の車輛で普及することはありませんでした。ほぼ同時期に誕生した151系電車と形状を合わせたものと思われます。オリジナルの形式では固定編成ということで最後尾、先頭部とも貫通車がなかったので、このような大きなテールサインが設置されたのでしょうが、後に分割併合をするようになると、切妻・貫通扉付きのナハフ21やナハネフ23が登場するのですが、テールサインはミニサイズとなりました。写真は見つかればアップしておきます。

昭和60(1985)年3月24日 09:57 はやぶさ 東戸塚→保土ヶ谷

昭和62(1987)年2月1日 あさかぜ 東戸塚→保土ヶ谷
20系客車の後継が14系と24系の寝台客車。24系では編成端となる電源車に貫通扉はありませんが、電源車のない14系では貫通扉があります。14系・24系では改造車を除き、20系のような展望室を設けた形式は登場しませんでした。ただ、貫通部に立ち入ることは出来たので、展望風景を楽しむことはできました。車端部のデザインについて20系と比較して好みは分かれると思いますが、貫通扉の幅に合わせたテールサインは小型となり、20系のような華やかさはなくなりました。

昭和56(1981)年5月3日 ニセコ 札幌駅

昭和57(1982)年7月25日 臨時つばめ 由比←興津
座席車の14系は寝台車のような深い屋根ではないので表情が異なります。特急用車輛ながらも白帯は3本ではなく2本です。もともと臨時運用を想定して設計されたからなのでしょうか。展望室はありませんが、貫通扉部は展望空間となっており、ファンが群がり、客室よりも混雑することがあったようです。

昭和60(1985)年4月7日 さよならEF15甲州路の旅 高尾→相模湖

昭和57(1982)年4月30日 スヤ52 5 函館駅
最後尾とは関係ありませんが、事業用車の中には貫通扉のない車輛が存在しました。写真は保健車のスヤ52です。タネ車にはあった貫通部を塞いだものです。車内には医療機器が詰まっており、地方で職務に当たる国鉄職員の健康診断を行っていました。

昭和60(1985)年4月28日 旅路 金沢駅
お座敷車に改造された12系客車の「旅路」。オリジナルのスハフ12にはなかったテールサインが設置されています。ジョイフルトレインに改造された緩急車(先頭ないし最後尾車)の中には展望車に改造されたものがあり、その変貌ぶりはまさに百花繚乱の様相を呈しておりました。北海道にはあまり縁のない客車でしたが、快速「海峡号」や臨時の「みどりの風号」に組成された実績があり、特に「みどりの風号」では旭川まで足を伸ばしています。

昭和57(1982)年7月25日 お座敷列車 由比→興津
元祖ではありませんが、お座敷列車を広く知らしめたスロ81系です。かつての特急用客車を思わせる2本の白帯が目を引きます。最後尾は貫通部に扉が無く、貫通したままです。旧型客車ならではの展望室ですね(笑)。テールサインを掲出しているものの、面白味に掛ける最後尾ではあります。スハフ42のような窓があれば、また違った味わいになったかもしれません。かつて蒸機が終焉を迎える頃、生録する蒸機ファンが絶対に確保したい場所でもありました。
かつて某有名作家が、普及しだした長距離電車に対し、前も後ろも同じ顔で、どっちに進むのだかよく分からん、みたいな愚痴をこぼしていました。今や電車も気動車も、前も後ろも同じ顔が当たり前となっているので、愚痴をこぼす人は皆無でしょう。機関車にばかり目を取られ、最後尾にカメラを向けることはホンの僅かでした。過去を振り返ると反省することばかりで、楽しかった思い出よりも後悔に浸ることの方が多いような気がする今日この頃であります。