ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

D51 349

SAMPUKU爺様と江別の鐵様の画像の転載はご遠慮ください。

昭和43(1968)年12月25日 追分駅

言わずと知れた、初のギースルエジェクタ装備のD51です。上諏訪機関区時代に搭載され、通常のD51との比較試験が実施され、燃焼効率の向上が確認されたといいます。ただ、シンダの排出量は多かったのだとか。

ギースルエジェクタの解説は私の手に負えるものではないので割愛させて頂きますが、オーストリア国鉄から技術を導入したものです。(当初は輸入品を装備していましたが、後に国産品を搭載するようになりました。)

その効果は認められながらも普及することはなく、35輌(記事によっては36輌ともあり、どの数字が真実なのでしょう)のD51に装備されるに留まり、そしてその多くは追分区に配置されました。室蘭本線には2400トンの石炭列車が運転されていたので、その運用には最適だったのでしょう。

画像は除煙板切り詰め前ですが、補助灯設置や「架線注意」札の貼り付けといった電化対策は実施済です。室蘭本線・夕張線は非電化路線ですが、電化区間函館本線にも顔を出すからでしょう。

ドーム後方には重油タンクを搭載しています。車歴表によれば上諏訪区時代、ギースル搭載時に重油併燃装置を撤去したとあるのですが、重油タンクはそのまま残したということなのでしょうか。

 

撮影日不明 清水沢駅

 

昭和51(1976)年3月4日 小樽築港駅

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D51349

上諏訪機関区に配属された縁からか、現在は岡谷市に保存されています。北海道現役時と比べ、一部の部品が撤去されたり交換されたりで、ちょっと印象が異なります。

 

D51 348

田中 泰三様とSAMPUKU爺様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和44(1969)年5月26日 富山第一機関区

炭水車に貼られている「架線注意」の張り紙に書かれている文章は

「上に向って放水するな / 〇〇〇〇等を振り上げるな / テンダに上るな」

うっかりな感電事故ってあったのでしょうかね。

同じ画像ですが、江別の鐵様が「1日かけてゴミ取りしたボクの苦労はどこいったの?」とすねてしまったので、その成果の画像も載せておきます。

 

昭和46(1971)年4月25日 上松~倉本(中央本線

すっかり重装備となった姿ですが、次位の機関車にはドーム後方に重油タンクはないようです。

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D51348

富山第一区時代と中津川区時代の姿の比較はできないのが残念です。

動輪が一対、人知れず高山市内に保存されているそうです。またナンバープレートは、大阪のあの共栄興業さんが所有しているとか。

D51 347

SAMPUKU爺様と江別の鐵様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和42(1967)年8月7日 旭川機関区

早々に除煙板が切り詰めされています。

ランボード上には大きな清缶剤送入装置が。

日立製のD51の砂撒管の形状は機関車によって異なっています。

 

撮影日不明 撮影場所不明

単機回送でしょうか。

 

撮影日不明 深川→北一已

架線柱が建ち並ぶ函館本線から分かれ、深川から留萌へ向けて、後部補機の運用にあたっています。難所は中間部に位置する恵比島と峠下との間ですが、深川~留萌間の全線を通して重量貨物に補機が連結されていました。前補機と後部補機との運用の使い分けの基準については分かりません。

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D51347

D51 346

田中 泰三様とSAMPUKU爺様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和43(1968)年9月1日 小樽築港機関区

 

昭和43(1968)年12月26日 森駅

 

昭和47(1972)年6月13日 長万部機関区

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D51346

ナンバープレートが特徴的です。天地幅が大きくて、目立ちます。形式と機番の間に隙間がなく、窮屈な印象があります。図面番号AD66180に準拠したもののようです。なんて書きながらググってみると、キャブ側面のナンバープレートは書体は同じように見えますが(細部は異なります)、形式と機番との間に隙間があります。また、固定ボルトの位置が枠から幾分内側となっていますが、これもキャブ側面のものは枠ギリギリにあります。

車歴表にある旋回窓の設置時期は間違っているようです。北見区へ異動する前にすでに施工済みです。

細かい話ですが、解放テコの支持金具、向かって右端のものは、上から見て、昭和43年には右ヒネリだったものが昭和47年には左ヒネリになっています。どちらでも支障はありませんし、他の機関車を見てもヒネリの向きは案外バラバラです。ただ大勢としては向かって右側2つは左ヒネリ、左側二つは右ヒネリとなっています。

D51 345

田中 泰三様とSAMPUKU爺様の画像の転載はご遠慮ください。

昭和42(1967)年8月6日 苗穂機関区

キャブは密閉化されているものの、除煙板切り詰めもギースル化も実施される前の姿です。補助灯がいかにも小樽築港区の所属機っぽい。

 

昭和50(1975)年1月2日 鷲別機関区

 

昭和50(1975)年11月 追分駅

11月なのにスノープラウが取り付けられていません。撮影日を間違えているのかも。

 

昭和50(1975)年11月11日 追分機関区

炭水車背面のステップ上端から手摺にかけての形状が珍しい。

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D51345

蒸機末期まで活躍してこともあってか、当時のSL保存の流行に乗って、現役中は縁もゆかりもない兵庫県太子町で保存されています。ただし、ある程度、時代を遡った姿を意識したのか、丸煙突化、補助灯撤去、前端梁のボルト孔埋め、フロントデッキのコの字型手摺の撤去などと余計なことをしたために、現役時代にはあり得ない姿になっています。よりにもよって鷹取工場での整備だそうですが、どうしてこんな余計なことをしたのか、その理由を知りたいものです。保存状態は良好のようですが。

D51 344

田中 泰三様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和43(1968)年3月 鹿児島本線

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D51344

乗車した列車から、すかさずシャッターを切ったものでしょうか。

車歴表によれば、この時期だと重油併燃装置を搭載していることになっているので、炭水車に1500リッターの重油タンクを載せているのかもしれません。

一ノ関管理所時代には補助灯を設置していたと思われますが、九州に来て取り外したものと思われます。九州の機関車はことごとく補助灯を載せません。

後部標識灯は原設計の位置にあります。

ナンバープレートは明らかに向かって右肩上がりとなっています。

旋回窓は取り外したのか最初から付いていなかったのか、ちょっと分かりません。

D51 343

田中 泰三様とSAMPUKU爺様と撮り人不明様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和42(1967)年7月17日 岩見沢機関区

 

昭和43(1968)年12月25日 清水沢←南清水沢

 

昭和47(1972)年6月17日 追分機関区

北海道機としては随分キレイな車体に見えます。

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D51343

ギースル機であることと北海道機としての特徴以外、特に指摘するような箇所は見当たりませんが、機関助士席のキャブ前窓の庇が、少し前垂れした形状なのがユニークです。

車歴表によれば、追分区時代に挟まれた1年足らず、金沢区へ転属した時期があったんですね。北陸本線の電化の関係だとは思いますが、どうしてこんな処置をせねばならなかったのでしょう。もっと近場で機関車を調達できなかったのでしょうか。

昭和42年には除煙板の点検口に蓋が取り付けられていましたが、昭和43年には撤去されています。

夕張線の貨物列車というと運炭列車がイメージされますが、ちゃんと車扱いも運転されていました。トラックによる貨物輸送がまだ十分に普及していない時代ではありました。