ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

38690

田中 泰三様と’撮り人不明’様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和43(1968)年2月18日 盛岡機関区

給水中の一コマです。

煙室戸周りの手摺は中央で分断されています。そのため支持材がわずか1カ所だけとなっています。大丈夫かいな。

煙突が何やら奥まっているな~と思ってよく見ると、煙室が延長されています。C51のように極端に飛び出してはいませんが、斜め横からでも番号板が除煙板の陰に隠れることはないので番号集めのファンにはありがたいことです。因みに煙室延長は、燃焼効率の向上が目的であり、これにより石炭の消費量が抑えられることと、副次的にシンダの発生が減少し、沿線火災の防止や乗客への煙害の軽減といった効果が期待されました。しかしながら、実際の効果は期待したほどではなかったため、普及することはありませんでした。煙突もちょっとだけ延長されています。

暖房用の蒸気管がランボードに沿って前方へ引き通されています。客車のバック運転用ですね。

スノープラウの切り欠き形状が何とも妙です。

 

昭和47(1972)年5月23日 弘前運転区

入換時を考慮して、左側ステップには囲いがあります。垂直材の頭に球体を付けているのは握った手が抜けないようにするためでしょうか。

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/8620/38690

38688

matuno kura が撮影した画像ではないので、転載はご遠慮下さい。

昭和43(1968)年2月16日 大更(おおぶけ)駅(花輪線

ハチロクによる重連三重連、変則3台運転など、様々な形態で補機運用のあった花輪線。最後尾から白い蒸気が上がっているので、この列車にも後部補機が付いているようです。奥中山のD51三重連と並び、ハチロクの補機運用も多くの蒸機ファンを魅了しました。けれども大正生まれのロートルにはかなり過酷な運用だったことでしょう。

LP405が2灯ながら化粧煙突のまま。スノープラウ取付に際し、サイドステップは撤去されています。その代わりスノープラウには踏段が溶接されています。

機関助士席に旋回窓はありませんが、機関士席には付いています。

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/8620/38688

38685

matuno kura が撮影した画像ではないので、転載はご遠慮下さい。

昭和42(1967)年4月29日 竜華機関区

非公式側の除煙板が少し傾いているように見えますが、ま、見なかったことに。

煙室戸周りの手摺ですが、どうしてハチロクだけ上部1本ものなんでしょうね。開発の参考にした輸入機関車、8700、8800、8850各形式の影響を受けたからでしょうか。後発のC51では再びキューロクのようにぐるりと回り込む形状に戻っています。

多くのハチロクには給水温め器は装備されていません(ウィキによれば搭載機は僅か37輌)。なので、給水ポンプも装備されていません。

キャブ窓は1枚大窓に改造されています。それに伴い庇も窓上部全体を覆うように長くなっています。機関士としては大窓の方が解放的で前方確認時に顔を出すのも楽だったでしょうね。

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/8620/38685

38681

SAMPUKU爺様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和43(1968)年3月17日 鳥栖機関区

流石、九州機!と絶賛したくなるような美しい姿です。化粧煙突と門デフ(K-7タイプ)とLP42の組み合わせも絶妙です。足回しは磨かれ、1600mmのスポーク動輪が軽快さを強調しています。キャブ裾は切り上げられず、そのためキャブ下には点検口が設けられています。

シリンダは公式側だけ空気弁が設けられています。空気弁は蒸気室につながっているもので、絶気運転時(惰行運転時)に蒸気が供給されなくなると空気弁が自動的に開き、外気が蒸気室へ送られます。機能としてはバイパス弁と同じで、バイパス弁はシリンダおよび蒸気室内の空気を循環させてピストン運動の空気抵抗を減少させますが、空気弁には外気を取り入れ、煙室内の煙がシリンダ内に逆流し汚損させない役目もあります。(と分かったような分からないような。)ならば、空気弁を持たないハチロクなどの旧式機関車では、シリンダ内は汚れまくっていた?ん~分からん。

キャブ前の缶胴には左右に押し釦状の丸いものが4か所ずつありますが、これはボイラの缶内を洗浄する際の洗口栓で、ここから綺麗な水を流し込んで、缶内に付着した不純物を流れ落とします。蒸気機関車も人間も、空気と水なしでは生きてはいけません。

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/8620/38681

38671

matuno kura が撮影した画像ではないので、転載はご遠慮下さい。

昭和43(1968)年2月10日 佐倉機関区

関東各地を渡り歩いた機関車です。佐倉区時代には成田線総武本線などで客車や貨車を牽引していました(「蒸気機関車 昭和51年3月号 No.42」より)。

ラッパ型の回転式火の粉止め、LP403、リブ付き除煙板などにより軽快さは失われています。申し訳程度の小振りなバイパス弁点検口もなんか中途半端。とはいえ、大宮工場担当機らしく、煙室戸の十字ハンドルは好感が持てます。前回の38652同様、ブレーキ管が前端梁の前を引き通されています。

C58が登場する前の昭和12(1937)年頃には千葉管内に70輌もの勢力を誇っていたといいますから、客車列車も貨物列車も、どこを見てもハチロクばかりという光景だったのでしょうね。

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/8620/38671

38652

matuno kura が撮影した画像ではないので、転載はご遠慮下さい。

撮影日・撮影場所とも不明

戦前から竜華機関区に配置されており、昭和40年頃の画像だとすると城東貨物線での運用が考えられます。次位にD51を従えています。

ネット上の昭和36(1961)年に撮影された画像を見ると非公式側に動力式逆転機が設置されていますが、この画像ではそれが見えないので、入換機から本線運用がメインになった頃なのでしょう。

サイドステップは久々に見るL字2段。ブレーキ管は前端梁を回り込んで引き通されているようです。

動輪径はハチロクが1600mmなのに対してD51は1400mm。けれどもランボードの高さもキャブの高さもD51の方が高いです。

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/8620/38652

38634

SAMPUKU爺様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和45(1970)年9月1日 中間駅付近

九州で一生を終えた機関車です。化粧煙突ではありませんが、LP42と除煙板のない姿がかつて幹線で急行列車を牽引していたであろう雄姿を彷彿とさせます。前部の解放テコは片側タイプ。第一動輪の前方へ伸びる長い砂撒き管ですが、落成当時は第二動輪前方の1本だけでした。その頃は自動連結器ではなく、バッファー付きのネジ式連結器を装備していました。つげ義春の「ねじ式」は全く関係ありません。

サイドステップはこれまた梯子タイプ。今更ながら落成時の他の機番の写真を見ると、全部梯子タイプとなっています。これが原型なんですね。

砂箱ドームには逆J字型のフックのようなものが見えます。ドームカバーを吊り上げるためのものでしょうか。同様のフックは蒸気ダメの方にもあるようなないような。

キャブ側窓の固定窓には何かカバーが付けられているのでしょうか。ポリカーボネート板で補強しているなんてことはないでしょうけど。ランボード2段化に伴い、キャブ裾は切り上げられています。そのため裾部に点検口はありません。

炭水車の前方にあるホース状のものは、水槽の水量を見るものでしょうかね。

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/8620/38634