ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

タチが悪い

昨日の記事で「土人ですらもない得体のしれないどこの馬の骨とも知れぬ反対派」の正体は、作家の目取真俊(偽名もとい筆名)という人物だったようだ。数々の賞を受けた有名作家らしいが、私は本も新聞もろくに読まぬ非文化人なので全然知らない。村上春樹の小説だって一冊も読んだことないし、学生時代、吉本隆明の薄い文庫本を読むのに1か月以上かかったが、とうとうたったの1行すら理解できなかった。バカとお呼び。

沖縄出身ということなので、本来の意味で目取は「土人」である。「土人ですらない」と決めつけたことに対してはお詫び申し上げる。それにしても流石、作家先生だけあって「土人」の言葉に込められた侮蔑的意味を御存じであったが故の問題提起であったろうが、その一言をもってして、内地人の沖縄県人への差別意識の表れと決めつけるとは、いやはや想像力、いや被害者意識に基づく妄想力はすさまじい。その妄想力が、これまでの作家人生を支えてきたのであろうが、それを現実社会に持ち込むのいかがなものか。アダルトビデオの大ファンが、世の中の女がすぐに股を開いてくれると勘違いしてるのと一緒ではないか。

一流作家がどれだけエライかなんて存じ上げないが、激高のあまり一人の若い機動隊員がつい「土人」と言い放ってしっまったことが、たとえローカルな新聞紙上であったにせよ、そこで取り上げるほど大きな問題とするようじゃあ、人間としての器の小ささを感じざるを得ない。精神的チビ、もしくは思想的チビというところか。おっと、チビも差別用語かな。チビ太は大好きなキャラクターであるよ。ケケケ。

沖縄に関する一片のできごとを殊更に針小棒大化し、日本人全体の問題として声を荒げるなんざあ、侏儒の妄想以外の何物でもないじゃろに。有名人だけにこの手の発言はタチが悪い。

沖縄には新垣結衣比嘉愛未国仲涼子といった素敵な女優さんや素晴らしい文化や旨い酒があるけれど、そんな沖縄であっても、目クソや耳クソが溜まって詰まって、本質が見えていないんじゃないか、分かろうとしないんじゃないかっていう「文化人」ってえのが生息しているのは残念でならない。関係ないけれど映画「男はつらいよ」最終話は奄美大島が舞台だったなあ。それ以前のTV版の最終回も奄美大島が舞台で、そこで寅さんはハブに噛まれて死んじゃうんだ。山田洋次監督にとって、奄美大島は天国への入り口なのかな。さぞやいいところなんだろうなあ。

そういやあ沖縄って、成人式の会場で暴れまくる若者が多いってことで有名だっけ・・・←たとえば、こんな何気ない一文が「沖縄の若者は暴力的である」という印象を与えてしまうことにもなる。その流れでいくと、目取も元若者として暴力的だったから機動隊員から「土人」と言われた、ということになっちゃうぞ。情報操作に一介の作家が加担する図式は、戦前の花森安治とあんまり変わんないぜよ。
かつて、アイヌや台湾原住民高砂族に対して侮蔑的発言をした琉球新報の太田朝敷なる人物は許されるのかね。いじめられっ子が、もっと弱い子をいじめているだけのことなんじゃね。それは許されるのかい。

彼の国の民族のように、被害者意識を出血大サービスばりに恥ずかしげも惜しみもなく露出して、相手を意地汚く罵倒することで自分を正当化し、勝つ見込みの全くない不当で不毛な闘いをしているようにしか見えない。作家なら、もちと頭を使えよ。

「うそつきは泥棒のはじまり」という言葉に対して、うそつきは「オレは嘘はつくけれど、泥棒なんかにゃならねえよ。バカにすんじゃねえ」と怒り、泥棒は「オレは泥棒だが、嘘つきなんかじゃねえ。バカにすんな」と怒った。差別用語っていうのは、所詮この程度の次元の問題じゃね?
なお、現在における正しい用法は「うそつきは政治家のはじまり」であり「うそつきは作家のはじまり」である。

最後に差別用語たちの気持ち「なんで俺たちはこんなに蔑まれ差別されるんだ。ちゃんとした、ただの言葉なのに。俺たちを差別化した連中を許すまじ!」とか。