ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

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matuno kura が撮影した画像ではないので、転載はご遠慮下さい。

昭和42(1967)年4月29日 竜華機関区

この頃は入換専用機だったようです。火が入っていないように見えますが、まだ廃車ではありません。

原設計では除煙板はありませんので、そういう意識で見るとこの姿が自然なように見えてきます。乗務員にしてみれば前方の視認性が向上するので、本線を走らないのであれば除煙板は無い方がいいでしょうね。

前照灯は久々に見るLP42。ちょうどよいサイズです。

パイプ煙突ながら、細身のボディに長めの煙突にはスマートさが感じられます。

入換専用機ということだからでしょうか、排障器に排障板が付いていません。

2段になっているランボードですが、立ち上がりの部分には補強板が当てられています。ヒビでも入ったのでしょうか。

缶胴を回り込む梯子は、原設計では蒸気ダメと砂箱の間にありました(18696を参照)。これがどういう理由で砂箱の後ろに移設されたのでしょうね。

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/8620/28653

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matuno kura が撮影した画像ではないので、転載はご遠慮下さい。

昭和43(1968)年2月18日 盛岡機関区

あらら、事故車でしょうか。除煙板が破壊され、シンダ受けがめくれ上がり、フロントデッキは歪んで解放テコが無くなり、手摺は倒れたり無くなったりし、ブレーキ管もホースが無くなっています。前照灯も壊れているようです。歪みながらも残された除煙板の上部ステーにあるのはツララ切りでしょうか。一体どういう事故だったのでしょう。車歴表ではこの3日後に廃車となっています。

煙室戸の蝶番には上下を結ぶ丸棒があります。9600や8620まで見られたタイプです。

番号板の数字の並びが特徴的で「286  44」となっています。9600にも同様の数字配列の機関車がありました。

キャブ側窓は大窓に改造されています。

炭水車はオリジナルのもの(石炭3.05トン、水12.14立米:フィートをメートル換算)で、これに鋼板の増炭枠を設け、その結果、石炭積載量が増加し6-13形式となっています。花輪線で活躍していたので、数多くの写真に記録されていると思います。

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/8620/28644

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SAMPUKU爺様と’撮り人不明’様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和43(1968)年3月31日 米子機関区

キャブ屋根が延長されていると思ったら、この前には郡山機関区に居たんですね。郡山工場で改造されたとは限りませんが。

ランボードの2段化により、キャブ裾は短くなっています。何か、足元がスース―する感じ。ま、よくあるタイプなのですがね。番号板が低い位置になっているのもその関係でしょうか。それとも、もともとタブレットキャッチャーが付いていた?

キャブ側窓はオリジナルの2枚窓。

 

昭和45(1970)年5月28日 米子機関区

パイプ煙突に回転式火の粉止め。そしてLP405。ハチロクならLP403よりもLP405の方がバランスが取れているかも。除煙板がなくスッキリしているから尚更そう感じるのかも。除煙板が最初から設置させるようになったのはC54から。なので、それ以前の形式には様々なタイプの除煙板が設置されました。C52にはありませんでしたが。D51のように改造により様々な形態の除煙板は存在しますけど。

フロント部に「担いバネカバー」はなく、シンダ受けのみが据えられています。こちらもスース―した感じ。

シリンダには空気弁がありません。オリジナルのまま。大正生まれっぽくていいですね。

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/8620/28635

 

昨日用事があって、そのついでに本屋をのぞき、久々に新刊の鉄道雑誌を見ました。「鉄道ファン」はカラーページが増えていますが、全体として薄くなっていますね。紙質も「鉄道ダイヤ情報」っぽく薄い紙を一部に使っているし。薄くて軽くなるのはいいことですけど。また某雑誌をめくると、何か見覚えのある写真が2枚。世の中には同じ写真を撮る人は何人もいるんだろうな、なんて思いながら撮影者の欄を見ると「PIXTA」の文字が。あれ。やっぱ自分が撮った写真?老舗出版社ながら、こういうところから写真を入手するとは、世の中も変わったものです。因みに以前、鉄友が撮影した宗谷線ラッセル動画がJR北海道のHPで使われていました。PIXTAには動画や画像をそれなりにアップしていますが、売れるのは毎年ホンの数枚です。結局、RM LIBRARYの「夕張鉄道」を買って帰宅しました。

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SAMPUKU爺様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和45(1970)年9月2日 早岐機関区

K-7タイプの門デフ装備機。パイプ煙突が軽快感を高めているかも。

この前年、松浦線伊万里~平戸口間38.2kmで48647の次位につきお召列車を牽引した名残でしょうか、煙室戸ハンドルとフロント手摺、解放テコが磨き出されています。もともと8620形式は急行用の旅客用機関車として開発されたもので、検修の現場からも高い評価を得、そして全国に配置されていたこともあり、お召列車牽引の実績はC51に負けない程です。

 

昭和45(1970)年9月2日 佐世保駅

暖房管を前端梁まで引き回しています。客車をバックで牽いても、これで暖房用の蒸気が送れます。現在の佐世保駅とは別世界でしょうね。LP403がいささか重そうです。

キャブ前妻の丸窓の縁取りもお召用に磨き出されたものでしょうか。側窓は原設計の2枚窓で、ガラス窓が開閉できる後ろ側のみ庇が付いています。シリンダに注目すると、公式側にある空気弁が非公式側にはありません。ないのが原設計です。

 

昭和45(1970)年9月3日 伊万里機関支区

かつては伊万里支区にも8620が廃止されていました。松浦線には佐々~臼ノ浦(うすのうら)の臼ノ浦線肥前吉井~世知原(せちばる)の世知原線なる盲腸線が存在していましたが、共に昭和46(1971)年12月26日に廃止されました。

ランボードは2段化されていますが、キャブ裾は原設計のままのようです。

 

昭和45(1970)年9月3日 伊万里

松浦線には気動車列車の他に客車列車も運転されていましたが、ハチロクの運用がどうなっていたのかはまだ調べておりません。

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/8620/28629

18677

田中 泰三様と江別の鐵様の画像につき、転載はご遠慮ください。

ヒロシです」とつい口に出てしまう「弘」の区名札。キャブ側窓はオリジナルの2枚窓。

昭和47(1972)年5月23日 弘前運転区

この頃、五能線で客貨の牽引にあたっていました。漏水管と並んで梯子は右側、リアステップ左側は入換手用の手摺付きです。左右でリアステップの取り付け方に違いがあるのは梯子のせいでしょうか。番号板下の形式板には「450立方呎」と表記されているようです。「呎」は「尺」ではなくフィートのこと(1尺は30.3cmで1呎は30.48cm)。450呎は0.3048×0.3048×0.3048×450で12.7立方mとなり、後に炭水車の形式は「6-13」(石炭6トン、水13立米)とされています。

 

昭和48(1973)年1月 川部駅

画像では分かりにくいですが、煙室が延長されています。キャブ屋根も延長されています。番号板上の「架線注意」札は大きくて目立ち過ぎです。目立った方がいいのでしょうけど。スノープラウには白ペンキで「1~77」と「86」が端折られて表記されています。そこ手を抜くところ?

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/8620/18677

8630

田中 泰三様の画像の転載はご遠慮ください。

これまで未掲載だったナンバーを江別の鐵様が発掘してくれたので、今回から8620を皮切りに順次ご紹介させて頂きます。(紹介になっているのかな?)

昭和49(1974)年11月24日 梅小路蒸気機関車館

高校3年生の時分、修学旅行の自由時間を利用して訪問した梅小路蒸気機関車館。ここで様々な形式と初対面を果たしました。17輌(当時、義經號とC62 1は梅小路におりませんでした)の保存機の中では最高齢を誇る8630号機は大正3(1914)年生まれで、今年6月に生誕110年を迎えます。(9633は同年の11月生まれ。)車籍は抹消されていたので本線運転はできませんが、火を入れての動態保存機でした。五能線を最後に引退しましたが、その当時はK-7タイプの門デフを装備し、ファンからは注目を浴びておりました。「ゆうづる」のヘッドマークなどのデザインを手がけた黒岩保美さんが、当時の生き生きとした8630の姿を8mmフィルムに収めています。梅小路入りに際し、できるだけ原型の姿でという意図からでしょうか、門デフは撤去されてしまいます。原型にするなら初期車の最大の特徴であるキャブ下のS字カーブを復元して欲しかったところです。青梅鉄道公園に保存されているトップナンバー8620ではS字カーブの美しい姿を拝むことが出来ます。(これとて、空気制動改造に際し、ランボードを2段構造としたため、その影響でキャブが底上げされる形状に変更されていますが。)

 

昭和52(1977)年10月14日 梅小路蒸気機関車館

鉄道記念日(現在は鉄道の日に改称)を祝し、車体を磨き日章旗を掲揚した晴れ姿。3年前の姿と変わった所はないように見えますが、煙室戸の取輪が十字タイプから標準的なものに交換されています。それと、前端梁に注目すると、3年前には縦方向2カ所に当てられていた細い平板が撤去され、その箇所にヒビが顔を出しています。何のために?

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/8620/8630

D62 17

natuno kura が撮影した画像ではないので、転載はご遠慮ください。

D62 17は元D52 343。

D52 343の車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D52/D52343

昭和41(1966)年8月3日 一ノ関管理所

シールドビーム2灯化されたD62晩年の姿。

先輪はディスクタイプ。正面番号板の位置はかなり高目。後方は8号機ですが、共に煙室戸の下部には用途不明の取っ手が付いています(取り付け高さは異なりますが)。

D52もD62も後部標識灯は前端梁に装着していますが、D51のように色々な場所に設置しない理由は何かあるのでしょうか。シンダ受けが前方に飛び出していることは無関係のように思いますが。

砂撒き管付近には一部のD52と同様に、缶胴の途中まで梯子があります。これはD62になってからの吹田区時代に集煙装置を設置した際に取り付けられたものと思われます。D52では集煙装置を外した際に煙突を元の長さに戻したようですが、D62でも同様だったのでしょうか。

あれれれ?何という事でしょう。給水ポンプがありません。接続する配管が途切れていますね。これでは給水温め器に水を送れません。一体なのが起きているのでしょう。などと思いながら車歴表を見ると、既にこの時点で廃車されており、この前日からボイラーとして利用されていたんですね。電気自動車を蓄電池として使うようなものでしょうか。キャブには斜めに梯子が掛けられていますが、それも関係しているのでしょうか。謎が多いまま、D62の章はこれにて終焉です。

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D62/D6217