ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

C55 34とC55 37

田中 泰三様の画像につき、転載はご遠慮ください。

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昭和43(1968)年3月 宮崎機関区

車歴は↓こちら。

C5534 機関車データベース (形式C55) - デゴイチよく走る!

C5537 機関車データベース (形式C55) - デゴイチよく走る!

 

共に流改、門デフ装備機ですが、門デフのタイプは異なっています。37号機は前回の33号機と同じK-7タイプですが、34号機はK-3’(ダッシュ)タイプと呼ばれ、前方の斜め支持棒が、歩み板スロープ上端に設置されています。除煙板そのものの大きさはほぼ同じですが、K-7タイプよりも低い位置となったことでこのような形状にされたのだと思います。所詮、除煙板の形状は見た目で決めていたと思われます。

この頃の鉄道車輛工学は経験的な部分が多かったらしく、流線型の形状にしても風洞実験を行った結果ということでは勿論なくて、デザイナーの趣味と云っても過言ではないでしょう。しかも、運転操作や検修のしやすさを設計に盛り込んだC55だったのに、流線型はそのどちらも阻害する結果となってしまったのは皮肉でした。見た目に囚われるとロクなことにはならないという事例でしょうね。とはいえ、やっぱり流線型の実物をこの目で見たかったです。

C55 32とC55 33

田中 泰三様とSAMPUKU爺様の画像につき、転載はご遠慮ください。

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昭和42(1967)年8月17日 室蘭機関区

車歴は↓こちら。

C5532 機関車データベース (形式C55) - デゴイチよく走る!

庫の中で憩うC55 32ですが、火を落としているようにも見えます。

出入り台下端の形状は、他の流改とは異なり水平に仕上げています。多くは後方上がりの斜めカットです。

 

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昭和46(1971)年2月17日 宮崎機関区か?吉松機関区か?

 

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昭和46(1971)年2月18日 不明

車歴は↓こちら。

C5533 機関車データベース (形式C55) - デゴイチよく走る!

K-7タイプの門デフを装備。小倉工場の標準形と云えるタイプで、10形式以上、140輌以上に施工されました。一口にK-7タイプと云っても輌数が多い分だけ細部では異なる部分も多々あります。C55やC57は門デフこそがお似合いです。

後部標識灯を装備していませんが、いいのでしょうか?灯掛けだけが前端梁で手持無沙汰のようです。

炭水車の高さが標準形と同じなので、他の機関車のものと振り替えたのでしょうか。

C55 30

SAMPUKU爺様と江別の鐵様の画像の転載はご遠慮ください。

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昭和42(1967)年8月5日 岩見沢

函館本線の電化開業前ながらもすでに補助灯が設置済み。「架線注意」札も前照灯の下に確認できます。ちっちぇえ。除煙板のステーには1号機と同様にツララ切りがあります。除煙板の点検口は蓋付きです。

因みに前位の機関車はD50 230です。

 

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フロントデッキに手摺が復元されています。前面ステップが前端梁前面へ移設。除煙板の点検口の蓋は撤去されています。キャブ前窓は旋回窓付き。

 

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標準形とは形状が異なるキャブ。流改は北海道機に限らず全て密閉式でした。(ただし、九州機には扉を撤去したものがあったようです。)流線型はキャブへの通風が芳しくなく、夏場の運転は過酷だったと云います。他にも運転上扱い難い箇所が幾つもあり、点検上の煩わしさと相まって、その流麗な見た目の姿とは裏腹に現場では極めて不評でした。

 

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通称「水かき」付きのスポーク動輪。これだけに魅了されたファンも少なからずおりました。これにより動輪の歪みはなくなり(タイヤの緩みがなくなる)、後のボックス動輪よりも堅固だったという説すらあるほどです。水かき付きスポーク動輪のC62なんてのも見たかったです。スポーク動輪に固執したドイツの機関車みたいでカッコいいかも。(ボックス動輪はアメリカ発祥。)

昭和47(1972)年1月1日 旭川駅

 

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昭和47(1972)年8月 旭川機関区

缶胴上のドームの形状は前後で対称的です。これも標準形とは異なるもの。また炭水車は標準形より腰高でキャブ屋根下とツラ位置にあり、後部の切り欠きが深くなっています。C55の炭水車の台車は鋳鋼製となり、のちの機関車でも多く採用されました。

流線型時代には炭水車の上面に、キャブ屋根と同じ形状の中央で二分割された覆いがあり、給炭・給水時にはシリンダーで左右に開閉していたのですが、これが何故か走行中に開いてしまい、トンネルのポータルに激突したという笑えない事故があったとか。同じく、煙室扉もシリンダーによって上下に開閉する構造になっていましたが、シンダを排出しようと作業員が煙室の中に入ったところ、シリンダーに送る空気が抜けて扉が閉まってしまい、あわや作業員が窒息しかけるという事故もあったそうです。世界の流行に乗って登場したC55流線型ですが、C53 43のように特急列車を牽引する華々しい活躍をしたわけでもなく、新聞でちょっとした話題にはなったものの、どちらかというと地方で急行列車を牽いたに過ぎず、無駄に改装費を要しただけのような気がします。しかしC55そのものは取り扱いも性能も良く、検修からも好評であり、総じて評価は上々でした。

 

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昭和49(1974)年9月2日 名寄駅

晩年は旭川稚内間を通しで運転する321列車と324列車を牽引しファンを魅了しました。それだけにC57 87などがやって来ようものなら、ファンは絶望に陥ったと云います。

過去記事でも触れましたが、30号機は流線型という過去が評価を得て手宮に保存される予定でしたが、何の手違いからか、呆気なく解体されてしまいました。急遽、代替として50号機がその栄誉を浴することになりましたが、事情に疎い人でもいたのか、一旦は30号機のナンバープレートが取り付けられました。動輪の刻印も「50」が削られるほどの巧妙さ。しかし「そりゃおかしいだろ」という当然の声が上がり、ちゃんと50号機のナンバーを付けて今に至ります。

車歴は↓こちら。

C5530 機関車データベース (形式C55) - デゴイチよく走る!

C55 19とC55 25

田中 泰三様とSAMPUKU爺様の画像につき、転載はご遠慮ください。

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昭和46(1971)年2月19日 西唐津駅

車歴は↓こちら。

C5519 機関車データベース (形式C55) - デゴイチよく走る!

一次型最終番号機で、若松機関区所属時代のようです。除煙板の裏当てが一部アングルになっています。後年の改造でしょうか。後部標識灯を前端梁に設置するのは九州機の特徴かと。大抵はデッキ上か煙室横ですね。

 

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昭和42(1967)年8月5日 岩見沢機関区

車歴は↓こちら。

C5525 機関車データベース (形式C55) - デゴイチよく走る!

電化によってED76などが配置される第二機関区が新設される前の、後の第一機関区になります。

いわゆる流改と呼ばれる、元流線型の改装車。20~40号機の21輌が該当します。標準型との違いはキャブに大きく表れています。足回りのカバーを外せばさほど点検に支障はないのに、なぜわざわざ多額の費用(およそ300万円、今なら数千万円でしょうか、C62の製造費が6000万円程度)をかけてまで標準型へ改装したのだ、という批判的な声もあったとか。戦後まもなくの写真には足回りが剥き出しになった姿が記録されていますが、確かに見栄えはよくありません。解体の途中なのか?みたいな。もともとがスマートな姿だっただけに、国鉄の矜持として、機関車はちゃんとした姿で運用するよう他の被牽引車とは別格な扱いがなされていたのかもしれません。

19号機ともども、まだ「架線注意」札が貼られていません。

C55 16とC55 17

田中泰三様とSAMPUKU爺様の画像につき、転載はご遠慮ください。

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昭和42(1967)年8月7日 旭川機関区

 

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昭和43(1968)年9月1日 旭川機関区

 

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昭和43(1968)年12月26日 名寄駅

車歴は↓こちら。

C5516 機関車データベース (形式C55) - デゴイチよく走る!

 

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昭和42(1967)年8月13日 滝川機関区

車歴は↓こちら。

C5517 機関車データベース (形式C55) - デゴイチよく走る!

 

16号機、17号機ともに旭川区所属機で除煙板前端に手摺を追加し、フロントステップを前端梁前面に移設しています。また北海道仕様としてキャブは密閉化され、キャブ前窓には旋回窓が取り付けられました。密閉キャブ化により軽快なスタイルが損なわれ、その部分だけ見ると大きなキャブだったC54と雰囲気が似てなくもありません。(実車は見たことありませんが。)函館本線の電化開業を前に、前照灯下には「架線注意」札が申し訳なさそうに貼られています。実際、すでに711系やED76-500が試運転で走っていた頃でしょうけど。電化対策として後に補助灯LP405が増設されます。

17号機では確認できませんが、16号機のドーム前にはS字状のホースのようなものが垂れ下がっています。江別の鐵様が「これは一体何なんじゃ~!」と騒いでおります。もしご存知の方がいらっしゃいましたら、是非ご一報をお願いします。古い雑誌をめくって現在確認されているのは他に15号機、47号機、49号機、50号機になります。15号機だけは九州の機関車で他は全て旭川区所属機。また手宮に保存されている50号機は、保存整備時に撤去された模様。

 

17号機が登場する映画があるそうです。昭和26(1951)年に製作された「曠野の誓い」というもので、機関士を始め、国鉄職員の人情味あふれる内容だったとか。舞台は狩勝峠という設定ながらも、多くは富良野線で撮影されたそうです。C55を入線させるために、軌道強化まで行ったようです。残念ながら国鉄内部での公開に留まり、一般の映画館では公開されなかったようです。季刊「蒸気機関車No.23」に紹介記事があります。旭川機関区が全面協力しており、組合員も積極的に参加。当時の乗務員や機関区の様子が赤裸々に描かれているのではないでしょうか。あ~見てみて~~~。

 

訂正(2022.07.19)

五十嵐信克様からのご指摘によれば、一部の映画館(帯広のキネマ館とか)では一般公開されたことがあるそうです。

C55 11とC55 12

田中 泰三様の画像につき、転載はご遠慮ください。

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昭和43(1968)年3月 門司駅

ナンバープレートが高い位置にあり、同じく門デフ装備のC57 11にそっくり。

車歴は↓こちら。

C5511 機関車データベース (形式C55) - デゴイチよく走る!

九州のC55と云えば門デフ(門鉄デフ)というイメージをお持ちの方が多いのではないでしょうか。実際、C55は全62輌のうち27輌が装備していたそうです。戦時中にドイツで考案された馬の目隠しのような除煙板は、日本では戦後になって九州の門司鉄道管理局の機関車で試験的に装備されたことに始まったのだそうです。

C55 11が装備しているのはK-4タイプと云われ(「K」は小倉工場の意味)、この機関車独自の形式です。外観から分かる通り、板は上下に分割されており、かつては上部が上下にスライド可能な構造でした。これは、排煙効果と板の幅(高さ)の関係を調査するためのものでしたが、結果的には板幅の違いに「大差なし」だったようです。試験を終えると上部の板は固定されてしまいました。

 

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昭和43(1968)年3月 飯塚駅

車歴は↓こちら。

C5512 機関車データベース (形式C55) - デゴイチよく走る!

こちらはK-7タイプの除煙板を装備しています。多少の変形も含めて、もっとも普及したタイプになります。因みに門デフを標準装備した機関車としてC63がありますが、残念ながら図面のみに終わり製造はされませんでした。

ところでこの12号機、ナンバープレートがちょっと傾いていませんか?

C55 1

田中 泰三様とSAMPUKU爺様の画像につき、転載はご遠慮ください。

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昭和42(1967)年8月17日 鷲別駅

鷲別駅は東室蘭操車場への通路線を挟むように上下のホームが離れており、両者は地下道で結ばれていました。列車はおそらく室蘭行きでしょう。

 

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ホームから線路に降りても叱られなかった時代。

 

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昭和42(1967)年8月17日 東室蘭駅

SAMPUKU爺様は、鷲別駅からC55 1牽引の列車に乗車しお隣の東室蘭駅で下車。その列車の発車をホーム端で捉えた模様。

 

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昭和43(1968)年9月1日 室蘭機関区か

稚内区へ異動となる直前の姿の様です。キャブ前窓は旋回窓と防護網でいかつい姿です。

 

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昭和43(1968)年12月26日 稚内機関区

 トップナンバーは北海道に新製配置され、梅小路区に保存されるまで終始道内で活躍しました。除煙板ステー上の「つらら切り」が特徴的です。だいぶ歪んでいるように見えますが。室蘭区から旭川区へ転属の際、フロントデッキ上に手摺が追加されています。しかし、落成時にはもともと手摺が設置されており、除煙板前端に手摺はありませんでした。フロント脇のステップが前端梁前面に移設されたのは旭川区所属機の特徴です。更に煙室両脇に設置されていた「架線注意」札が撤去されているようです。

車歴は↓こちら。

C551 機関車データベース (形式C55) - デゴイチよく走る!

 

C55というと、晩年は北海道と九州のみで見られた機関車で、そのスマートな車体と水かき状のリブのあるスポーク動輪が人気を集めていました。

名機と呼ばれたC51の軽量改良型としてC54が設計されたものの、不況下での少数生産に加えて現場での評判はあまり芳しいものではなかったため、そこで改善を図って誕生したのがC55でした。C55の評判は上々で更なる改良を加えて増産が図られたものの、シリンダー径・使用圧力の変更やボックス動輪を採用するなどした結果、それら改良増備車には新形式C57が与えられたために、C55の製造はわずか62輌に留まりました。わずか62輌ながらもそのうち21輌は流線型として製造され、大きな話題を呼びました。

国鉄制式蒸機としては缶胴上の蒸気溜めと砂箱が初めて一つのドームに収められ、近代型スタイルが確立されました。