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昭和42(1967)年8月5日 岩見沢駅
函館本線の電化開業前ながらもすでに補助灯が設置済み。「架線注意」札も前照灯の下に確認できます。ちっちぇえ。除煙板のステーには1号機と同様にツララ切りがあります。除煙板の点検口は蓋付きです。
因みに前位の機関車はD50 230です。
フロントデッキに手摺が復元されています。前面ステップが前端梁前面へ移設。除煙板の点検口の蓋は撤去されています。キャブ前窓は旋回窓付き。
標準形とは形状が異なるキャブ。流改は北海道機に限らず全て密閉式でした。(ただし、九州機には扉を撤去したものがあったようです。)流線型はキャブへの通風が芳しくなく、夏場の運転は過酷だったと云います。他にも運転上扱い難い箇所が幾つもあり、点検上の煩わしさと相まって、その流麗な見た目の姿とは裏腹に現場では極めて不評でした。
通称「水かき」付きのスポーク動輪。これだけに魅了されたファンも少なからずおりました。これにより動輪の歪みはなくなり(タイヤの緩みがなくなる)、後のボックス動輪よりも堅固だったという説すらあるほどです。水かき付きスポーク動輪のC62なんてのも見たかったです。スポーク動輪に固執したドイツの機関車みたいでカッコいいかも。(ボックス動輪はアメリカ発祥。)
昭和47(1972)年1月1日 旭川駅
昭和47(1972)年8月 旭川機関区
缶胴上のドームの形状は前後で対称的です。これも標準形とは異なるもの。また炭水車は標準形より腰高でキャブ屋根下とツラ位置にあり、後部の切り欠きが深くなっています。C55の炭水車の台車は鋳鋼製となり、のちの機関車でも多く採用されました。
流線型時代には炭水車の上面に、キャブ屋根と同じ形状の中央で二分割された覆いがあり、給炭・給水時にはシリンダーで左右に開閉していたのですが、これが何故か走行中に開いてしまい、トンネルのポータルに激突したという笑えない事故があったとか。同じく、煙室扉もシリンダーによって上下に開閉する構造になっていましたが、シンダを排出しようと作業員が煙室の中に入ったところ、シリンダーに送る空気が抜けて扉が閉まってしまい、あわや作業員が窒息しかけるという事故もあったそうです。世界の流行に乗って登場したC55流線型ですが、C53 43のように特急列車を牽引する華々しい活躍をしたわけでもなく、新聞でちょっとした話題にはなったものの、どちらかというと地方で急行列車を牽いたに過ぎず、無駄に改装費を要しただけのような気がします。しかしC55そのものは取り扱いも性能も良く、検修からも好評であり、総じて評価は上々でした。
昭和49(1974)年9月2日 名寄駅
晩年は旭川~稚内間を通しで運転する321列車と324列車を牽引しファンを魅了しました。それだけにC57 87などがやって来ようものなら、ファンは絶望に陥ったと云います。
過去記事でも触れましたが、30号機は流線型という過去が評価を得て手宮に保存される予定でしたが、何の手違いからか、呆気なく解体されてしまいました。急遽、代替として50号機がその栄誉を浴することになりましたが、事情に疎い人でもいたのか、一旦は30号機のナンバープレートが取り付けられました。動輪の刻印も「50」が削られるほどの巧妙さ。しかし「そりゃおかしいだろ」という当然の声が上がり、ちゃんと50号機のナンバーを付けて今に至ります。
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