ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

C57 148

SAMPUKU爺様の画像につき、転載はご遠慮ください。

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昭和42(1967)年3月26日 亀山機関区

車歴は↓こちら。

C57148 機関車データベース (形式C57) - デゴイチよく走る!

煙室前端が角張っているC57は、145~148号機まで連チャンだったことになります。

集煙装置の有無と、ナンバープレートの数字の書式は異なるものの、前回の146号機と似た雰囲気が漂います。あ、煙室扉回りの手摺の形状に違いが見られますね。

やはり重油併燃機であり、重油タンクを背負っています。

 

この機関車の一番の話題は、最良の状態で保存されているということでしょうか。大阪の会社が会社ビルのロビーに保存展示しているのですから、いわば、会社の顔みたいな存在になっています。会社そのものは鉄道とは直接関係ありませんが(「鉄」という部分では関係していますが)当時の社長が無類の汽車キチということで、ロビーの壁には数えきれないくらいのナンバープレートが貼り付けられています。ただ残念ながら現在は一般には公開していないので、ビルの外からガラス越しに覗き見るか、間近で見たいのであれば社員になるか、またはそのビル内で仕事(清掃員とか、電気やボイラーのメンテ、ないしはセキュリティー要員)をするか、或いは仕事上で訪問するか、もしくは社長とお友達になるしかないでしょうね。当時の社長さんとは、ある鉄ちゃんからの依頼で、取り次ぐために電話をしたことがありますが(私もかつては「鉄」に関係する会社に勤務しており、その会社とは仕事上でのつながりがあったため、仲を取り持つ役に利用された次第で、もう30年も前の話)、気さくな感じの印象でした。

C57 146

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昭和42(1967)年3月26日 亀山機関区

車歴は↓こちら。

C57146 機関車データベース (形式C57) - デゴイチよく走る!

丸味のない煙室前端ながらも、お召列車牽引の実績を有しています。後部標識灯の反射板が扇のように見えて、ちょっと目出度い感じがします。回転式火の粉止めを載せているせいか、煙突がかなり長く見えます。

画像では確認できませんが、ドーム後方に重油タンクを背負い、機関車側のキャブ前窓は、張り出しタイプになっています。また、砂撒き管は、第二動輪の前後ではなく、第一と第二動輪の前方に伸びています。キャブ前妻の明かり取り窓は丸ではなく四角。この辺りのディテールは奈良区で僚機だった147号機と共通の部分があるようです。

ヤフオクに出品されていた湊町で撮影されたと云う写真は奈良区時代のものでしょうか(撮影日は不明)、

ヤフオク! - 【鉄道写真】C57 146 湊町支区 [0005918]

正面ナンバープレートは高い位置に取り付けられています。しかも、煙室前端は丸味を帯びています。印象が全然違いますね。

C57 124

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昭和45(1970)年9月2日 早岐機関区

車歴は↓こちら。

C57124 機関車データベース (形式C57) - デゴイチよく走る!

この翌々年、早岐区からC57は全機撤退し、124号機は吉松機関区へ。

砂撒き管が増設されています。

リンゲルマン濃度計は、吉松区へ転属後に撤去されたようです。

前端梁下部にまで伸びていた蒸気管も、吉松区時代には撤去されています。

九州の機関車は、前端梁に灯具掛けを取り付けているものが多いようです。

最後の活躍の場は、日豊本線の南延岡~西鹿児島間でした。

 

現在は煙室より前部分のカットモデルが、鹿児島県さつま町にある「宮之城鉄道記念館」に保存されていますが、屋外野ざらしで、かなり憐れな状態となっているようです。

C57 101

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昭和47(1972)年8月27日 浜田機関区

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C57101 機関車データベース (形式C57) - デゴイチよく走る!

前回の96号機と同じく顔だけ画像で失礼します。でも96号機と違って、101号機の画像はそこそこネットにアップされています。で、それらを拝見すると、やはり集煙装置を搭載し、重油タンクまで背負っています。スマートで軽快な印象のC57にこんな重装備は似合わないというファンもいますが、私は重装備で山登りをする新庄ビッグボスをイメージしてカッコいいと思います。新庄ビッグボスが山登りをするかどうかは知らんけど。重油タンクを背負った機関車は北海道にもいましたが、集煙装置を付けた機関車なんて北海道にいたのでしょうか。

キャブ前窓の庇は長~いタイプ。重い雪の北陸なんかでこんなことやったら、庇は重みでお辞儀してしまいそうです。

 

撮影したこの日はD51やC56らと共に四重連を組んで客車を牽き、沿線のファンを大いに沸かせたようです。

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昭和47(1972)年8月27日 浜田機関区

D51 1+C56 108+C57 101+D51 674

D51 1の梅小路入りが決まり、別れを惜しんでの特別四重連とのこと。列車は定期。

 

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昭和47(1972)年8月27日 荒島駅か C56の次位がC57 101

何とも大仰な編成だこと。ちょっとやり過ぎな感じがしなくもありません。世が世なら、グレタちゃん発狂事項です。

画像は江別の鐵様が探してくれました。お手数をおかけしました。これからもよろしくね。

C57 96

田中 泰三様の画像につき、転載はご遠慮ください。

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昭和43(1968)年10月 浜田機関区

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C5796 機関車データベース (形式C57) - デゴイチよく走る!

これでは外観がよく分かりませんが、某書籍の写真を見ると集煙装置を載せていたようです。また前照灯はちょっとガッカリなLP405。浜田機関区のC57は集煙装置を載せた機関車が多かったようですし(一部、重油タンクも装備)、また夏場でもスノープラウを取り付けた時期があったようです。運用は浜田を中心に東は後藤、西は益田まででした。風光明媚な日本海沿いを往く姿は、写真に数多く記録されていますね。

境線の後藤にはあの有名な後藤工場があり、現在は後藤総合車両所として稼働中。境線は短いローカル線に過ぎないのに、なんで国鉄の工場があったの?と疑問に思って調べてみたら、もともと境線というのは、境港と岡山とを結ぶ陰陽連絡線として計画された路線だったのですね。札幌駅に対する苗穂工場のように、米子駅に対して後藤工場が設置されたということです(機関区は米子機関区、現 後藤総合車両所運用検修センター)。結局、陰陽連絡線は紆余曲折があって、今の伯備線姫新線因美線津山線という形で落ち着きました。後藤工場といえばGタイプ(-1~-7)で表現される門デフが有名で、輌数こそ少ないですが、その独特の形状がファンの憧れであったと云っても過言ではないでしょう。後藤工場では浜田区、米子区、新見区などの機関車の整備を担当していました。

C57 66

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昭和43(1968)年3月19日 大分運転所

 

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昭和47(1972)年3月 宮崎駅

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C5766 機関車データベース (形式C57) - デゴイチよく走る!

大分運転所から宮崎区へ移って変わった点と云えば、ドーム前にコの字型の手摺が設置された一方でリンゲルマン濃度計は外され、またちょっと分かり辛いですが、砂撒き管が増設されているのが確認できます。

前端梁下端には蒸気管が伸びており、逆向き運転で客車を牽引していたことが分かります。それだけに、貨車を牽く姿にはちょっと残念感が漂います。サラブレッドがばんえい競馬に出るみたいな。

現在は、全く縁のなかった京浜東北線大森駅近くの公園に保存中。圧縮空気により汽笛吹鳴と、動輪の回転が可能となっており、決められた時刻に「発車」しているそうです。大きな動輪がシューシュー音を立てて回転する様は、子供たちの目には驚きの姿でしょうね。

C57 65

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昭和57(1972)年3月 宮崎機関区

車歴は↓こちら。

C5765 機関車データベース (形式C57) - デゴイチよく走る!

K-5タイプの門デフを装備する唯一の機関車で、かつては特急「かもめ」の専用牽引機でした。その当時は煙突に2本の真鍮製帯を巻き、ヘッドマークと共に列車の先頭部のアクセントとなっていました。弧を描く前ステーが優美です。

特急「かもめ」は戦後に誕生した5番目の特急列車で(1「平和」昭和24年、2「つばめ」昭和25年(「平和」の改称)、3「はと」昭和25年、4「さくら」昭和26年)昭和28(1953)年に京都~博多間で運用を開始しました。所謂、昼行山陽特急の第一号です。戦前に走っていた特急「鷗」は、東京~神戸間で運転されていたもので、戦後の「かもめ」とは別列車と云えるでしょう。客車は特急用のスハ44系が充当されました。展望車こそありませんでしたが、固定式のロマンスシートであったため、折り返しの際には編成全部を方向転換する必要がありました。「かもめ」の場合には京都口では京都→丹波口梅小路(貨物駅)→京都という経路で、博多口では博多→香椎→酒殿→志免→吉塚→博多という経路で三角運用がなされました。展望車を連結した編成や、スハ44系の編成を用いる特急列車の方転は他に東京口、大阪口、上野口、青森口でも実施されていました。手間暇かけた編成方転のための三角運用は、特急列車のステイタスでもあったわけです。

スハ44系にも展望車にも縁のない北海道でも、三角運用は他人事ではなく、苗穂~岩見沢~苫小牧~苗穂という経路で扱われたことがあります。785系電車がuシートを組み込んだ5輌編成化を行う前に編成の方転が実施されています。

(非HD)785系4連、6連から5連化 - YouTube

また、三角運用ではありませんが、編成の向きを変えるために岩見沢経由での遠回り運用をしたこともあります。臨時運用の多かった国鉄色キハ183系室蘭本線千歳線、山線などを走っているうちに向きが逆になることがあり、その時には岩見沢経由で函館に戻ったり、また789系1000番代の甲種輸送の際には、製造工場から通常の経路で運転することができなくなり(理由は忘れた)、そのため、逆向きで道内にやってきたため、岩見沢経由で苗穂工場に入場したこともあります。

65号機について書くことがなかったので、つい余談に走ってしまいました。