ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

C57 50

SAMPUKU爺様の画像につき、転載はご遠慮ください。

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昭和42(1967)年8月6日 苗穂機関区

 

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昭和42(1967)年8月 札幌駅

車歴は↓こちら。

C5750 機関車データベース (形式C57) - デゴイチよく走る!

この頃、短期間だけ苗穂機関区に配置されていたようですが、重油タンクを背負っているのは小樽築港機関区所属機の特徴でしょう。狩勝峠越えの運用にあたっていたものと思われます。

車歴を見ると、西日本~関東~小樽築港区と、流れ流れて北の大地にやってきた、さすらいの機関車って感じでしょうか。何か記事がないかなと思いググってみましたが、写真の1枚も見つかりません。さすらうだけのことはあります。

ドーム前の扇形手摺、旋回窓、密閉キャブと、北海道仕様に身を包み、前照灯はまだ1灯のみ、除煙板の点検口には開閉式の蓋をしていた時代です。

正面ナンバープレートは低い位置に付いていますが、この6年前の若干不鮮明な写真を見ると、少し高い位置にあります。おそらく、ナンバープレート上方の補助灯掛けを設置するために低い位置に移したのだと思います。ナンバープレート位置が高めの29号機や44号機などは、補助灯掛けをナンバープレートの下方に取り付けていたり、同じく高めの91号機や104号機や118号機などはナンバープレートの位置はそのままで上方に補助灯掛けを取り付けたりと、機関車によって(もしくは配置区によってか?)対応が異なっています。

C57 40

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昭和42(1967)年8月6日 苗穂機関区

車歴は↓こちら。

C5740 機関車データベース (形式C57) - デゴイチよく走る!

主に東日本を転々としてきた機関車だったようです。前照灯やナンバープレートの煤け具合は完璧に北海道仕様ですが、旋回窓こそあれ、ドーム前の扇形手摺も補助灯もなく(補助灯はこの後、設置)、キャブの密閉化も施されていません。正面ナンバープレートの上方には、前方にピコーンと何かが角のように付き出しています。補助灯掛けなのでしょうか。廃車後の留置された写真を見ると、この角はなくなり、代わりに三つ目用のL型補助灯掛けが、ナンバープレートの向かって左上方に取り付けられています。

雑誌記事によれば、この頃は札幌~函館間(東室蘭経由)の臨時急行「石狩」や札幌~稚内間の急行「利尻」(ただしC57の運用は札幌~旭川間)などの優等列車を牽引し、本来の急行用機関車としての任務を十分に果たしていたようです。

C57 37

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昭和43(1968)年3月17日 鳥栖機関区

車歴は↓こちら。

C5737 機関車データベース (形式C57) - デゴイチよく走る!

煙室扉のハンドルが美しく磨かれています。九州の機関車はホント、美しいです。煤だらけでナンバーもロクに読めない北海道の機関車とはエライ違いです。九州の機関車がスーツ姿なら、北海道の機関車は汚れた作業着姿って感じでしょうか。まあ、泥まみれの姿は、それはそれで味があるのですが。

砂撒き管が1本追加されています。通常は第二動輪(主動輪)の前後だけに設置されおり、第一動輪の前にあるのが追加分。

キャブ側面の雨水管は手摺を兼ねたもので、C53以来のもの。(C50はC53の後に登場。)C58以降は密閉キャブになったために兼用手摺はなくなりました。

この当時、早岐機関区には13輌(9、37、100、111、112、116、124、153、154、155、158、174、175号機)のC57が在籍していましたが、そのうち通常の除煙板装備はわずか4輌(37、124、153、174号機)だけでした。門デフの普及ぶりが伺えます。

C57 26

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昭和42(1967)年3月26日 亀山機関区

車歴は↓こちら。

C5726 機関車データベース (形式C57) - デゴイチよく走る!

集煙装置に重油タンクを装備した、いかにも峠を制する気、満々なスタイルです。前回の記事でご紹介した4号機同様、煙室前端は角ばっていますが、フロントスロープ部への食い込み方が異なっており、煙室の長さは異なっていると思われます。キャブ側面のナンバープレートは、タブレットキャッチャーをかわすために、幾分下側に取り付けられています。

この時代には亀山から参宮線の伊勢までの運用に就いていたようです。他のC57にも集煙装置が付いていたわけではありませんが、重油タンクは載せていました。現在の参宮線紀勢本線多気から分岐していますが、もともと亀山~多気間も参宮線でした。更に過去に遡れば、関西鉄道参宮鉄道の路線でした。昭和34(1959)年に紀勢本線が全通したことで、亀山~多気間は紀勢本線編入されましたが、神様よりも国鉄の力の方が強大だったようです。

廃車後は縁もゆかりもない埼玉県行田市に保存されています。集煙装置は外されており、短めの煙突が集煙装置を載せていた名残になります。

C57 4

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昭和43(1968)年3月19日 大分運転所

車歴は↓こちら。

C574 機関車データベース (形式C57) - デゴイチよく走る!

N-2タイプの門デフ装備。一口に門デフと云っても、長工式(Nタイプ)と小工式(Kタイプ)とでは印象が随分と異なります。C57の長工式は軽快さにちょっと欠けるように思います。おそらく、屏風を支える前のステーが斜めになっている小工式に対して長工式では垂直に立っているため、その違いによる印象の差だと思います。手摺をも兼ね備えた長工式の方が機能的ではあるでしょうけど。

大分運転所時代にはちょっと残念なLP405装備でしたが、この後の宮崎区時代にはLP42に換装されています。大分の前の新潟区・新津区時代にはLP403でしたので、前照灯を見ればある程度時代が特定できそうです。

そしてこの機関車の顔に違和感を覚える特徴が、煙室前端でしょう。原設計では丸味を帯びていますが、その丸味の部分を直角にしています。前端部に腐食が発生したため、その補修の際に工作が容易な直角にしたようです。施工は鷹取工場で、15輌に実施したと、ある書籍には記されていましたが、あちこちの写真から4、6、7、26、36、67、80、85、87、98、110、119、121、127、145、146、147、148、152号機の19輌を確認しています。

なお、新潟・新津区時代には何故か前端梁のみゼブラ模様が施されていました。また大分にやってきてからは旋回窓が撤去されています。更に宮崎区時代には砂撒き管が2本から3本に増設されるなど、特定機をモデル化をする場合には、年代や配置区にも注意を払わねばならないので、実に大変そうです。わたしはやりませんけど。

C56 160

田中 泰三様の画像につき、転載はご遠慮ください。

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昭和52(1977)年10月1日 梅小路蒸気機関車館

 

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昭和56(1981)年8月25日 小浜駅

「SLわかさ号」は福井県置県100年を記念し、8月25日~31日の7日間に渡り、小浜線敦賀~小浜間で1日1往復運転されました。

 

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昭和61(1986)年4月30日 名古屋駅

 

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昭和61(1986)年4月30日 笹島駅

「SL 一世紀号」は愛知の鉄道100周年を記念した列車で、4月30日~5月5日までの6日間、東海道本線の名古屋~木曽川間と武豊線で運転されました。

関連記事

「SL一世紀号」を木曽川で - ただいま鉄道写真スキャン中

 

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平成6(1994)年11月30日 高山駅・高山運輸区

 

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平成6(1994)年12月2日 火入れ 高山運輸区

 

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平成6(1994)年12月3日~7日? 試運転

 

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平成6(1994)年12月9日 高山駅 SL飛騨路号 出発式

 

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運転最終日

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平成6(1994)年12月13日 高山駅 SL飛騨路号 到着式

「SL飛騨路号」は高山本線全通60周年を記念して、12月9日~13日の5日間に渡り、高山~飛騨古川間で1日2往復運転されました。12系5輌編成での運転ですが、最終日だけは旧客オハフ46の2輌を用いて運転されました。


車歴は↓こちら。

C56160 機関車データベース (形式C56) - デゴイチよく走る!

3年前の平成30(2018)年5月に本線営業運転を終え、現役を引退した160号機ですが、

それまで全国各地でSL列車を牽引した実績があるだけに、車歴のボリュームはとびぬけています。思い起こせば昭和55(1980)年11月、札幌~小樽間で運転された「北海道鉄道百年記念号」に萌えた日々が印象深いです。

北海道鉄道百年記念号-01 - ただいま鉄道写真スキャン中

 

蒸機全廃後、C57 1と共に、もっとも数多く記録された機関車でしょう。引退しても京都鉄道博物館で構内運転をしているので、今でも生きた姿を見ることができます。

C56は機番は164号機まで存在しますが、161~164号機は樺太庁鉄道国鉄編入された際に1~4号機(国鉄とは別物)を改番したもので、ナンバープレートは改番されないまま使用されたそうですから、書類上だけの機番ということになります。よって160号機が国鉄C56の最終機番と云って差し支えないでしょう。樺太のC56は敗戦後、ソ連が押収し、行方知れずとなっています。

C56 159

田中 泰三様の画像につき、転載はご遠慮ください。

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昭和48(1973)年8月22日 七尾線

車歴は↓こちら。

C56159 機関車データベース (形式C56) - デゴイチよく走る!

長らく小海線の運用にあたっていましたが、七尾線で映画ロケに使用されていた123号機が映画のシーンを再現するかのような踏切衝突事故に遭遇し廃車に。その代替として急遽、159号機は七尾区に転配されました。七尾線では「おくのと号」の牽引にもあたり、その最終列車で有終の美を飾っています。画像は、その1か月前の姿です。

向って右側の除煙板上部ステーからピコーンと直立する金具はなんなのでしょう。補助灯支持具?リンゲルマン濃度計取り付け具?

何か表情がさらっとしているなと思ったら、煙室扉回りの手摺がコの字形の小振りなものに付け替えられています。

画像では判別しにくいですが、キャブ屋根が後方に延長されています。

小海線時代(中込区時代)にはなかった除煙板の点検口が設けられています。また「おくのと号」は急行列車だったからでしょう、炭水車にタブレットキャッチャーが設置され、またキャブ出入り口には転落防止用の安全手摺が備えられています。

廃車後は石川県志雄(しお)町(現 宝達志水町)に保存されましたが、塩害による腐食が進むも手当はさっぱり進まず、こりゃもう手に負えんとばかりに結局は解体されてしまいました。その際、160号機に部品を譲った縁からなのか、第二動輪が梅小路機関車館の屋外に展示されました。しかし 名も無き車輪たちとの集合展示で、説明板もありませんでした。そして京都鉄道博物館となってからはどうなったのでしょう。