ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

C57 65

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昭和57(1972)年3月 宮崎機関区

車歴は↓こちら。

C5765 機関車データベース (形式C57) - デゴイチよく走る!

K-5タイプの門デフを装備する唯一の機関車で、かつては特急「かもめ」の専用牽引機でした。その当時は煙突に2本の真鍮製帯を巻き、ヘッドマークと共に列車の先頭部のアクセントとなっていました。弧を描く前ステーが優美です。

特急「かもめ」は戦後に誕生した5番目の特急列車で(1「平和」昭和24年、2「つばめ」昭和25年(「平和」の改称)、3「はと」昭和25年、4「さくら」昭和26年)昭和28(1953)年に京都~博多間で運用を開始しました。所謂、昼行山陽特急の第一号です。戦前に走っていた特急「鷗」は、東京~神戸間で運転されていたもので、戦後の「かもめ」とは別列車と云えるでしょう。客車は特急用のスハ44系が充当されました。展望車こそありませんでしたが、固定式のロマンスシートであったため、折り返しの際には編成全部を方向転換する必要がありました。「かもめ」の場合には京都口では京都→丹波口梅小路(貨物駅)→京都という経路で、博多口では博多→香椎→酒殿→志免→吉塚→博多という経路で三角運用がなされました。展望車を連結した編成や、スハ44系の編成を用いる特急列車の方転は他に東京口、大阪口、上野口、青森口でも実施されていました。手間暇かけた編成方転のための三角運用は、特急列車のステイタスでもあったわけです。

スハ44系にも展望車にも縁のない北海道でも、三角運用は他人事ではなく、苗穂~岩見沢~苫小牧~苗穂という経路で扱われたことがあります。785系電車がuシートを組み込んだ5輌編成化を行う前に編成の方転が実施されています。

(非HD)785系4連、6連から5連化 - YouTube

また、三角運用ではありませんが、編成の向きを変えるために岩見沢経由での遠回り運用をしたこともあります。臨時運用の多かった国鉄色キハ183系室蘭本線千歳線、山線などを走っているうちに向きが逆になることがあり、その時には岩見沢経由で函館に戻ったり、また789系1000番代の甲種輸送の際には、製造工場から通常の経路で運転することができなくなり(理由は忘れた)、そのため、逆向きで道内にやってきたため、岩見沢経由で苗穂工場に入場したこともあります。

65号機について書くことがなかったので、つい余談に走ってしまいました。