ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

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田中 泰三様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和47(1972)年5月22日 新津機関区

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D5163

補助灯がなくエプロンがなく、何だか爽やかな表情に見えます。キャブ側面もヤケにあっさりしていて、メーカーズプレートも換算票もタブレットキャッチャーもありません。それに対して、炭水車にはデ~ンと1500リッターの重油タンクが鎮座し、重々しい印象です。

ナンバープレートの「D」の文字が、緊張したように角張っています。線の太さも一様ではありません。これを個性と云うべきか。

煙室扉の蝶番が補強されていますが、よくあるリブによるものではなく、鋼板2枚重ねとしています。

炭水車のステップ、向かって左側の踏板がスノコ状のものです。雪や氷が堆積して滑ることがないようにという配慮でしょうか。

炭水車台車の台枠には、レール間用の排障器らしいものが取り付けられていますが、台枠形状の異なる29号機や36号機のものとは形が違います。バック運転時用のものかと考えましたが、先輪にはそんなものはないので、それは違うでしょうね。模型屋さんが特定ナンバー機を製作する時には、こんな細かい部分にまでこだわるのでしょうか。

 

今朝はカラフルで楽しい夢を見ていたようですが、突然、目が覚めました。目覚まし時計を見ると3時10分前。「昼寝でもしていたか?」と寝ぼけ頭で考えるも、陽の差し込み方はいかにも朝っぽい。やばい!寝坊か!?と焦って起き上がってスマホを見てみたら、5時15分。いつもの起床時刻じゃん。ホッ。ってことは目覚まし時計が2時間以上も遅れた?一晩で?そういえば夕べは、寝る前に目覚まし時計の時刻を確認していませんでした。もしかすると暗い部屋で目覚ましのスイッチを入れる際に、時計の針をいじってしまったのかも。それでもまあ、体内時計がちゃんと機能してくれて助かりました。昨日は介護保険証が届きました。いよいよ高齢者の仲間入りか。

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SAMPUKU爺様の画像の転載はご遠慮ください。

昭和42(1967)年8月7日 幌糠駅か?

周辺の山の形から幌糠駅ではないかと推測しました。

門デフ(長工デフ:N-2タイプ)を装備し続けた貴重な62号機です。ナメクジで同形の門デフを装備していたのは他に95号機がおりましたが、こちらは北海道にやってきてから通常の切り詰め除煙板に交換されてしまいました。類似した門デフ装備車としてはC57形式130号機がN-3タイプを装備しておりました。このC57 130同様、62号機も門デフながら切り詰めされております。

前照灯のツララ切り、フロントデッキ上、左右のコの字形手摺などで北海道色に染められていますが、他に画像では分かりませんが、機関士側は旋回窓装備、キャブは密閉化されています。

 

昭和48(1973)年1月1日 深川機関区

後ろ姿。まさか門デフ装備車だとはまだ知らなかった頃。知っていたとしても、庫の中に頭を突っ込んでいては、まともな写真など撮れなかったでしょうけど。そもそも時間がなくて、機関区入口付近でサッと撮ったらすぐに深川駅へ戻ってしまいました。

梯子状のステップ、庇の付いた前照灯。それ以上のことは画質が悪くて細かいところまで確認できません。それにしてもレンガ車庫は素敵です。

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D5162

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江別の鐵様の画像の転載はご遠慮ください。

昭和49(1974)年8月 比布

名寄区時代は宗谷本線の貨物列車牽引に活躍。真夏なのにスノープラウ装着。南へ向かう上り貨物列車です。色灯式信号機がちょっと近代的。3灯式の場合、上から緑、橙、赤の順となっており、縦向きの道路用(雪国用)とは順番が逆。高い位置の信号機が本線2番線用で、低い位置のものが副本線3番線用のもの。

向って右側のステップが、梯子タイプに交換されています。スノープラウとの干渉を避けるための措置というよりも、デッキへの乗降時のし易さを考慮したものかと。

 

昭和50(1975)年3月16日 遠浅~沼ノ端

単機ながらなぜか爆してます。昭和50年であっても、室蘭本線の室蘭~岩見沢間はまだ蒸機列車の天国でした。

 

昭和50(1975)年4月20日 遠浅駅

 

昭和50(1975)年8月 追分駅

54号機と同様に、砂撒き管取り付け部のドームカバーを撤去。随所に北海道スタイル化された部位が確認できます。いちいち書きませんが。

炭水車の増炭枠は目一杯の長さです。14号機もそうなので、名寄区所属機の特徴でしょうか。

 

昭和51(1976)年3月4日 小樽築港

煙室扉の上の蝶番には灯具掛けのようなものがありますが、名寄区から岩見沢第一区へ異動になってから取り付けられたもののようです。何でしょうね、これ。

また、非公式側にはボイラーに沿った手摺のような棒鋼が煙室前面まで伸び、先端部で屈曲しています。現役時代の写真には見当たらないものですが、これも何なんでしょう。本物の手摺は、その少し上方、画像左端に先端だけちょこっと写っています。

機関車全体の保存とはなりませんでしたが、手宮の総合博物館には第二動輪のみが保存・展示されているようです。

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D5160

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江別の鐵様の画像の転載はご遠慮ください。

昭和47(1972)年8月 小樽築港機関区

北海道の機関車とは思えないほどに磨かれています。全検上がりなのでしょうか。車歴表には書かれていませんが。

第一、第二、第四の各動輪ってみんな同じかと思っていましたが、第二動輪はカウンターウェイトが少し大きいんですね。9600もD52も同様ですが、日本初のミカド形である9700だと4輪全部同じに見えます。

 

昭和49(1974)年12月 岩見沢

降雪時の写真では、それが雪なのかゴミなのかが分かりません。車輛のディテールを記録する時は、雨や雪の日は避けるべきですね。

 

昭和50(1975)年3月16日 沼ノ端~遠浅

室蘭本線で、D51が牽引していた唯一の旅客列車225列車。後に、NHKの番組収録でC57 135が牽引して話題となりました。その番組はビデオソフト化されましたが、何分にも古い作品なので入手は難しいかもしれません。なおその時に収録した映像では、この列車のドキュメンタリー番組の他に、加藤芳郎さんと山口百恵さんがこの列車で乗車を楽しむという番組も制作されたのですが、こちらの方はソフト化された話は聞きませんので、当時、Uマチックの高価な(当時で40万円くらい、いまなら数百万円相当)ビデオ機材で録画した人しか見ることが出来ないでしょうね。と思ったら、こんなのが転がっていました。

https://www.youtube.com/watch?v=rQETQlJl3Ws

https://www.youtube.com/watch?v=iszz1pcYvWY

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D5159

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田中 泰三様とSAMPUKU爺様の画像の転載はご遠慮ください。

昭和43(1968)年12月26日 森駅

補助灯はあるものの、除煙板の切り詰めは未施工。それにしても、いい場所で撮影しています。下り貨物列車になりますが、右側には貨物ホームに留置している貨車の姿があります。

 

昭和46(1971)年11月23日 苗穂機関区

53号機や54号機とは異なり、形式と番号の間にスペースのある、窮屈ではない書式のナンバープレートです。除煙板点検口は蓋付き。この蓋は、フロントの先輪釣合バネカバー前面蓋とは異なり、蝶番は前寄りに統一されているようです。

 

煙室扉の取っ手、除煙板前端の手摺、フロント部のステップ、なんかみんな斜めっています。

↓キャブ側面のナンバープレートも心なしか前上がりに傾いているような。

昭和47(1972)年6月14日 苗穂機関区

スポートで給水中。クレーン車で給炭を終えてから、この場所に移動したように思えます。苗穂機関区へは何度も行ってるのですが、作業なんかほとんど見ちゃいなかったので、その段取りはほとんど記憶にありません。観察力に乏しいのは、今でもほとんど変わっていないのが我ながら残念です。

 

昭和47(1972)年8月6日 苗穂機関区

以前の記事で触れたように、キャブの密閉化に伴い、炭水車は干渉を避けるために、前端部は後退角を持つ3面折れに改造されました。

個人的には密閉キャブの方がプロポーションがいいように感じます。キャブ屋根の後ろへの張り出しがほとんどないというのはちょっと寂しいですが。

くるくるぱーとドームカバーとの干渉部の処理が絶妙に見えます。

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D5155

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昭和46(1971)年11月23日 苗穂機関区

 

昭和47(1972)年4月9日 苗穂機関区

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D5154

ナメクジ大変身、といった変形機です。この当時、蒸機に関する記事を読みながら「なんでC52とC54はいないんだろう」程度の知識しかなかった私でも、この54号機の異様さは驚きでした。前面は標準形、ドーム前端は戦時形、ドーム後部はナメクジ。1輌で3度美味しい。

ディテールについてはモデラ―の方の方が圧倒的に詳しいでしょうから、ここでしれっと語るのはいささか憚れるのですが、まあ一応触れておきます。

ナンバープレートの書体は53号機同様の窮屈タイプ。炭水車背面のは写真がないので分かりません。

除煙板前端の手摺は、スロープに接しないコの字タイプ。公式側の前面ステップは、この少し前までは縦長のコの字タイプだった模様。(60号機と同じタイプか?)

除煙板の点検口は縁無しで、角はアール無し。かつては蓋付きだったのだろうと推測しますが、その痕跡は見当たりません。

煙室扉の蝶番二つの間、煙室前端に何やら突起物が。はて、何でしょう。

機関士側のキャブ前妻窓は旋回窓で、防護網まで設置しています。妻上部にある筈の二カ所の丸い明り取り窓がないようです。

非公式側キャブ側面の前部から給水ポンプの下端へ向かって伸びる斜めの棒状の部材は「空気作用管」らしいのですが、用途は分かりません。(「空気作用管」といえば通常は4,5本束ねた銅色の細い管で、ボイラーに沿って張られているものです。)他の機関車では、こんなにピンと張って真っ直ぐにはなっていません。53号機、47号機、38号機でも確認できるように、大体はよたついています。そして北海道や東北の機関車だけに見られる部材のようです。雪や寒さと関係しているのでしょうか。因みに、除煙板切り詰め前の47号機では確認できませんので、設置は後年になってからのようです。

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田中 泰三様と江別の鐵様の画像の転載はご遠慮ください。

昭和50(1975)年8月 苫小牧駅

D51の背後に苫小牧機関区があります。駅のホームからは、留置している機関車をいつも眺めることが出来ました。駅の函館方には王子製紙の巨大な煙突が聳えています。

 

もともと前端梁にあった灯具掛けは撤去されています。

ダラリと垂れた空気ブレーキ管が何ともけだるそうです。

 

区名札は「岩」ですが「岩見沢第一機関区」(旧 岩見沢機関区)の所属です。「岩一」という区名札もあったそうですが、記憶にありません。今後の画像で見つかるでしょうか。DD51やED76-500は岩見沢第二機関区の所属で「岩2」の区名札を差していました。

 

昭和47(1972)年6月18日 苫小牧機関区

旋回窓は機関士側だけの装備です。全検上がりからそう時間は経っていないので、炭水車は綺麗です。機関車本体も北海道機ながら、そこそこキレイな状態かと。ナンバープレートの書式は、炭水車背面のものだけ異なっています。各停ではない貨物列車を数多く牽引していたのでタブレットキャッチャーは現役。

 

昭和49(1974)年11月3日 由仁駅

マニュアル機能の付いたオートカメラでの撮影で、標準レンズが固定されていました。一眼レフでの望遠撮影には憧れましたが、そんな高価な機材など到底購入できる状況ではありませんでした。画像はかなりトリミングで拡大しているので、輪郭が甘いのです。

 

昭和50(1975)年3月7日 追分駅

追分駅では貨物列車2本並びをよく見ることができましたし、ナメクジと標準形の並びもそう珍しくはありませんでした。ホームから降りての撮影は黙認状態で、みんなよくやってました。

 

昭和50(1975)年8月12日 志文~岩見沢

前夜、追分駅で徹夜生録をしていたので、この時はボ~ッとした状態で記憶があまり定かではありません。下り列車は志文駅を出ると左に大きくカーブした線路を進みます。この線路、当時は貨物専用線で、旅客線はカーブしないで真っ直ぐ北上していました。現在は旅客線が廃止され、もともとの貨物専用線を旅客も貨物も走っています。

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D5153

蒸機末期まで生き延びた機関車なので、多くのカメラにその勇姿が記録されたことでしょう。