ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

D51 96

田中 泰三様と江別の鐵様の画像の転載はご遠慮ください。

昭和43(1968)年9月1日 小樽築港

 

昭和49(1974)年10月27日 滝川駅

 

昭和50(1975)年7月13日 滝川機関区

 

昭和50(1975)年8月 岩見沢

 

不明

 

昭和51(1976)年3月4日 小樽築港駅

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D5196

夏でもスノープラウ

長野区に在籍し、同僚の95号機と近い時期に北海道へ渡ったものの、長野区らしい痕跡は見当たりません。信越本線で急行「白山」を牽引していた頃は、炭水車に重油タンクを載せていました。

北海道仕様に改造されているものの、キャブは密閉化されていません。

 

どうでもいいですが、96号機の前にあるのは19603です。炭水車背面の梯子が右側に付いているのが確認できます。入換専用機で、機関士席は右側にあります。

 

滝川駅では次位にワフ121000形式を連結しています。黄色い帯は最高速度が65km/hと遅いことを意味し、道外禁止の道内限定の運用としていました。

 

蒸機末期まで活躍したナメクジとして、多くのカメラに収まっていることでしょう。

そしていま、碓氷峠鉄道文化むらで余生を過ごしています。フロントにあったコの字手摺は撤去されていますが。

D51 95

田中 泰三様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和47(1972)年6月16日 滝川機関区

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D5195

もともと、62号機と同じN-2タイプの長工式門デフを装備していましたが、62号機のように存置(といっても切り詰めされましたが)されることなく、北海道タイプの切り詰めデフに交換されてしまいました。交換された除煙板は新規に作ったものなのか、それとも他の機関車のものを移植したものなのかは分かりません。ただし上部ステーだけは門デフ時代のものです。

ついでかどうかは分かりませんが、煙室扉の取っ手も、向かって右側のものが撤去されています。長野区時代の、ランボードの縁から前端梁に伸びて、連結器両側でV字を描いていた白線は跡形もありません。

ドーム後端は、重油タンクを載せていた時の名残で、垂直に切り取られています。

炭水車のナンバープレートが、傾いて見えるのは気のせいでしょうか。炭庫上部へのステップは特徴的な梯子タイプです。

現在は新得の街で丁寧に保存されており、根室本線を行く列車を毎日見送っています。

D51 89

田中 泰三様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和43(1968)年5月30日 金沢運転所

 

昭和43(1968)年11月14日 高岡機関区か?

車歴は↓こちら。

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何と云っても、公式側除煙板の切り欠きが目に入ってきます。手摺は原型のものを内側だけ活用しており、C58形式200号機ほどはいじってません。類似した切り欠きには688号機がありますが、SAMPUKU爺様が撮影した688号機は切り欠き前の写真でした。

炭水車付きのものを除いて。形式入りナンバープレートは3枚。形式入りのものは、そこはかとなく時代を感じさせる書体に見えます。

5月には片側だけにあった前端梁前面の特異なステップが、11月にはスノープラウの装着に合わせてなのか、撤去されており、その取り付け用のボルト孔が明きっぱなしです。

876号機の炭水車と比べると、後方の切り欠き具合がだいぶ異なります。876号機のものは「8-20B」でしょうけれど、切り欠きは原設計よりも明らかに大きいです。因みに876号機は炭水車の画像しかありません。

89号機は豊橋市に良好な状態で保存されているようなので、機会のある方は是非とも訪問してこの機関車を眺めて欲しいものです。5輌しか存在しなかった貴重な標準形試作機(先行機)ですので。ただし、装着しているスノープラウはここの画像のものとは異なっています。

D51 88

田中 泰三様の画像の転載はご遠慮ください。

エプロンは1970年の全般検査の時に設置された模様。

 

鉄道省 浜松工場」の銘板が外されてしまったのは残念。

 

昭和47(1972)年5月22日 新津機関区

1500リッターの重油タンクだと思います。炭水車から伸びるパイプは、機関区のお風呂にでも蒸気を送っているのでしょうか。左側のステップがスノコ状のものに交換されています。形式プレートは外されていますが、炭水車は「8-20A」かと思います。台車はナメクジと同様に鋳鋼製ですが、軸距が1700mmから板台枠台車と同じ1600mmに変更されています。(板台枠台車の炭水車が「8-20B」、胆振縦貫鉄道のD51では「9-20」を、戦時型の船底形は「10-20」)

 

昭和49(1974)年7月23日 滝川駅

当時、知識の極めて乏しかった私は、この88号機を見て、「54号機よりも完全に普通の姿に改造された元ナメクジ」だと思い込んでおりました。

最後の3年足らずを北海道で過ごすにあたり、北海道仕様への改造の他、キャブ屋根の延長部分の撤去、タブレットキャッチャーの増設と、それに干渉するナンバープレートの前方への移設、炭水車上の重油タンクの撤去などが施工されています。タブレットキャッチャーの増設により、手摺兼縦樋のパイプは、通常だとタブレットキャッチャーを避けるように屈曲させるのですが、そこは手付かずのままで、ストレートです。

炭水車の前照灯や漏水管はそのままなのでしょうか。炭水車背面の写真って、ホント少ないです。

車歴は↓こちら。

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「母の日」に掲載できれば洒落ていたかも。

D51 86

田中 泰三様とSAMPUKU爺様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和43(1968)年12月26日 旭川機関区

 

昭和47(1972)年6月14日 深川機関区

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標準試作機の第一号になります。お馴染みのデゴイチスタイルです。

軸重配分を是正すべく、ナメクジを止めて給水温めを煙突前に据え、後方に偏っていた軸重を前方へ移動させています。給水温め器を煙室の上に載せる場合、9600やC51、C52では煙突後方に載せていましたが、軸重を少しでも前方へ移動させるためにD51では煙突前となり、このスタイルがD52やC58にも採用され、見慣れた姿となっています。もしも煙突後方に据えていたら、集煙装置の形もだいぶ違ったものになっていたかもしれません。D50のように、更に前方となるフロントに置かなかったのは、先輪の担いバネカバーがあって置くスペースがなかったためであり、C53のように前端梁の裏も同様の理由でスペースがなかったからです。どちらも大幅な設計変更を行えば不可能ではないでしょうけれど、そこまでしなくても煙突前の移設だけで所定の軸重配分が達成できたということでめでたしめでたし。

煙室前端の丸味は止めて角張ったものになりました。前端に丸味を設けるのはかなりの工数を要する作業にも思え、また平滑性の問題によるものなのか、錆びが生じたために丸味を止めて角縁に改造されたナメクジも数輌存在しており、前端丸味はスーパーナメクジのドームのように、機能的には無意味で保守の面ではむしろマイナス、単なる「見たくれの良さ」だけだったのかもしれません。

標準試作機である86~90号機の5輌は全て国鉄浜松工場で製造されました。101号機以降の標準機ではキャブが幾分後方へ拡大されましたが、標準試作機ではナメクジと同じ寸法のままです。

D51 85

SAMPUKU爺様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和42(1967)年8月5日 岩見沢機関区

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新製配置以来、道内から出ることのなかった、北海道生え抜きの機関車です。(生まれは大阪ですが。)函館本線電化開業前なので補助灯はありません。大型前照灯1灯だけの姿も切り詰めされていない除煙板も、個人的には馴染みが薄いので、自分の知らない遠い時代を感じてしまいます。遠いといっても私は当時小学生4年生。ついこの間じゃん。もしもその時に鉄ちゃん化して、校則無視で(一人で外出できる範囲が決められていました)苗穂機関区へ行っていたら、このナメクジにもSAMPUKU爺様にもお会いできたのかもしれません。北海道のほぼ全線で蒸機列車が走っていた時代。走っていなかったのは貨物列車が走っていなかった根北線くらいだったでしょうか。多くの炭鉱が残っており、明治生まれの古典ロコもまだ健在でした。あ~溜息が出ちゃう。

旋回窓前方の防護網はツララ切りでしょうかね。運転窓の防護はDD51にもかつて防護棒という形でありましたが、いつの間にか外されてしまいました。蒸機の防護網もいつしか消えており、どんな変化や理由があったのでしょう。

エプロンの向かって右側には孔がぽっかりあいています。何かを通していたのか、それともうっかり開けてしまったものなのか。ところで「あな」というと「穴」という字の方がメジャーでしょう。「穴」と「孔」の違いは、落としアナのようなへこみや窪みを「穴」(ヘソの穴とか)、ボルトアナのように貫通したものを「孔」だと思い込んでいましたが、実際にはどちらも同じ意味であり、使い分けの基準はその大きさなのだとか。つまり大きいアナが「穴」で、小さなアナは「孔」。じゃ、尻のアナはどうかというと普通は「穴」。ってことはケツのアナより小さいのが孔なのかな?いやそれとも鼻の穴かな?そういえば昔、日曜日の昼の番組で、ビックリ人間を紹介するコーナーがありました。今でも印象深く残っているのは、左右の鼻の穴から片や牛乳を、片やコーヒーをすすりこみ、それを目からコーヒー牛乳として出すビックリ兄ちゃんでした。見ていて、思わず鼻から目にかけてツーンとしてしまいましたよ。他には、生きた金魚を呑み込んで、しばらくしてそれを吐き出すと、金魚はちゃんと生きているというものもありました。昔のテレビ番組も、今に劣らず下らないことを垂れ流していたものです。恥ずかしい思いをして隠れたくなるのは「穴」ですね。

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田中 泰三様とSAMPUKU爺様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和42(1967)年8月17日 室蘭機関区

 

昭和47(1972)年6月13日 小樽築港機関区

車歴は↓こちら。

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小樽築港区での画像は、廃車を前提とした休車状態のようです。

5年の間に変わった所と云えば、ナンバープレートの上方にあった灯具掛けが下方に移動しています。除煙板の切り詰めとそれに付随する手摺や補助灯の設置、そして旋回窓は標準的な北海道化ではあります。清缶剤送入装置が撤去されています。

煙突後方から砂箱までの間で、ドームの接合位置は一般的には水平なのですが、84号機では後ろにせり上がっています。入手している画像や雑誌の写真を見返して見ると、79号機以降がそうなっています。(86~90号機は標準形なので除く。)いずれも汽車會社製なのですが、工作法を変えたのでしょうか。