ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

D51 515

田中 泰三様と”撮り人不明”様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和43(1968)年6月30日 高崎第一機関区

白ナンバーのひとつです。

ナンバープレート上方の「架線注意」札は、しっかりと台座の上にボルト締めされています。キャブ側面の製造銘板は簡素化され、もはや「大宮」ですらありません。

 

昭和43(1968)年6月30日 八王子機関区

同じ日に2つの機関区で撮影したようですが、どちらが先だったのかは不明です。所属は八王子区です。外観的特徴は・・・んと・・・あ、担いバネ前カバーの点検蓋が上開きですね。その蓋をひっかけるフックも確認できます。下開きにしたらいいのにと思うのですが。

 

昭和45(1970)年10月4日 高麗川駅

補助灯が撤去されています。手造り感あふれるヘッドサインがかえって胸に沁みます。

八高線無煙化を記念して運転された「さようなら蒸気機関車 八高号」で、八王子と高麗川間で運転されました。八高線のSLさよなら列車はこの1週間前の9月27日にも高崎~高麗川間で運転されており、この時はD51 631+C58 309の重連でした。運転を高麗川駅を境に別列車としたのは、運転所要時間によるものと考えられますが、他に、牽引機関車の所属の違いによるもので、高崎第一機関区が高崎鉄道管理局で、八王子機関区が東京西鉄道管理局という管理上の区分が関係していたとも考えられます。

そして同じ10月には、高島貨物線の電化により、首都圏から蒸機は姿を消すのでした。

 

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D51515

D51 513

matuno kuraが撮影した画像ではないので、転載はご遠慮ください。

昭和42(1967)年か 坂町機関区

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D51513

新津区所属機であり長野工場の担当機という共通点から、集煙装置こそ載せていませんが、お顔は501号機と似ています。画像では確認できない炭水車背面は前回の512号機と同様のようです。現在、東京都板橋区に保存中で、2017年に整備されたようですから、今でも比較的良好な状態であると思われます。

保存機513号機については下記のサイトが参考になります。

http://c5793.ebo-shi.com/hozond51513.html

https://c5793.ebo-shi.com/hozond51513-2.html

http://c5793.ebo-shi.com/hozond51513-3.html

右端に写るD51ではサイドステップが撤去され、その代わりスノープラウに踏段が設置されている様子が伺えます。

D51 512

田中 泰三様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和47(1972)年5月22日 新津機関区

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D51512

長野工場担当機の特徴がどこまでなのかは分かりませんが、外観上の特徴が幾つも見られます。

前照灯下の「架線注意」札の貼り付け位置が、501号機と同じ右寄り(向かって左寄り)。

エプロン無しは、原設計のまま。D51とC58のみに設置された蒸気排気管カバー(缶胴とランボードとの接触部にあるカバー)も原設計のまま残されています。長野工場の他、大宮、後藤、多度津の各工場担当機も、このカバーは残していたようです。因みに北海道機はC58も含めて全部撤去していました。

除煙板の裏補強に一部アングル材を使用。その除煙板上端には吊環2個取付。このタイプのものは初めて見たような気がします。

連結器横のホースは、担いバネカバーの中を潜って先台車の奥に入り込んでいます。SG用の物にしては妙な構造のような。

先輪はディスクタイプに交換されています。

給水温め器が載る煙室上部の切り欠きは、かなりざっくりと大きめなもの。

キャブ屋根は延長。キャブ側面の製造銘板と換算重量標が外されているのは残念。盗難防止のために外すケースもあったとか。

炭水車前端側面には検水管。こんな場所に設置するのは珍しいでしょう。水位を示す目盛りが不均等なのが面白いです。

炭水車上には重油タンクが載ります。車歴表には680リッターとありますが、それはドーム後方に設置するA型であり、炭水車上のものはB型の1500リッターです(一部、3000リッターのものもあります。)

炭水車背面に目を移すと梯子が目につきます。オリジナルのステップを梯子状にしたものではなく、完全に梯子です。向かって左側の入換用のステップでは、コの字型の足掛けに代えてプレート踏段としています。このような構造はD51では初見のような気がします。

もっと目を凝らせば、他にも色々と特徴が見つかるかもしれません。

 

新発田市に保存されており、詳細は下記のサイトをご覧下さい。

https://c5793.ebo-shi.com/hozond51512.html

D51 511

SAMPUKU爺様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和42(1967)年8月9日 北見機関区

 

昭和43(1968)年12月28日 常紋信号場

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D51511

北見区や釧路区独特の補助灯を装備しています。フロントのコの字型手摺が左右にあるというのもこの区所属機の特徴。そのくせ、ドーム前の手摺は苗穂工場型です。

架線の下を走らないためか、「架線注意」札は装着していません。

除煙板の点検口はいささか大きめでしょうか。

排障器の前側には大きめの排障板が増設されています。

常紋信号場を通過するのは混合列車でしょうか。後部に客車が見えます。その横には短いホームの上で列車を見守る駅員の姿があります。タブレットを授受したのでしょう。

スノープラウが左右で形状が異なっているのは、向かって左側の上端が折れ曲がっているからでしょうか。どしたらこうなる?

D51 509

田中 泰三様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和47(1972)年6月18日 鷲別機関区

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D51509

ギースル機です。関東、東海、東北地方の各機関区を転々として最後に骨を埋めたのは北海道。北海道は蒸機の墓場と呼ばれるだけのことはあります。

大宮工場の担当時期が長かった割には、煙室扉のハンドルが十字ではありません。

キャブ側面の製造銘板が公式側と非公式側とで異なっています。製造時期が異なっているのでしょうか。おまけにナンバープレートの取り付け位置も違います。

炭水車背面には旧来形式の梯子状ステップが。

某ツイートによれば、信越本線で脱線転覆事故を起こしています。

https://twitter.com/nandaumanosuke2/status/1357335266000687104

車歴表には載っていませんが、高崎第一機関区時代かと思われます。(この頃、煙室扉ハンドルは十字。)地元の新聞なら報道されてもおかしくないほど盛大にこけていますね。

D51 508

SAMPUKU爺様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和42(1967)年7月30日 新小岩機関区

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D51508

ファンから嫌われたお皿型の回転火の粉止めを装着しています。晩年はこのお皿は見なくなりましたが、何か問題でもあったのでしょうか。C59やC62といった格調高い大型機では(写真で)見たことはありませんが、極く一部のC60とC61は装着した前歴があります。

逆転器の先端部にカバーがありませんね。このカバーの形状は機関車によって幾つかのタイプがあります。担当工場の違いによるものかもしれません。

前端梁に4カ所ある解放テコ受けですが、両端のものが左右逆になっています。どちら向きでも支障はないのでしょうけど、なんか気になります。

大宮工場謹製の磨き出された煙室扉の十字ハンドルは、ちょいとばかり風格が漂います。

 

昨日、5回目のワクチン接種をしてきました。オミクロン株のBA.4-5に対応したものです。今のところ腕の傷みは注射した左上腕部だけに留まり、発熱も37℃と微熱レベルで、生活への支障はありません。中国では感染者が9億人にも上ると推定されており、買い物などで店に入ろうとすると、非感染者は拒絶されるようです。「感染するから入るな」と。アホ丸出しの共産党ゼロコロナ対策の反動がとんでもない格好で起きており、大量の感染者が海外へ渡航し、全世界へ迷惑を撒き散らしています。もしも全世界の人々が一人残らず感染した時に一体どうなるのか、中国はそんな人体実験でも行おうとしているのでしょうか。

D51 506

田中 泰三様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和43(1968)年6月30日 八王子機関区

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D51506

正面を見て気づくのは、煙室扉の取っ手が随分と端っこにあるということ。この方がテコの原理で扉を開く力は少なくて済みますけどね。中央の十字ハンドルは大宮工場担当機の特徴のひとつかと。

生涯を首都圏での運用に終始したためか、前端梁にスノープラウ固定用のボルト孔はありません。

製造銘板を見てふと思ったのですが、戦後まもなくまで、文章を横書きするときは右書きが主流でした。しかし昭和一桁の製造銘板でも左書きのものは珍しくないようです。アルファベットや数字は左書きですから、それに合わせたのでしょうね。そもそもナンバープレートは明治の頃から生粋の左書きだし。なので、506号機の製造銘板を見た時に最初は「戦後に作られたもの?」と思ってしまったのですが、どうもそうではないようです。右書きでも左書きでも読める文章って凄くないですか。今でも船体に書かれた船名は、右舷側は右書きになりますね。書籍では縦書きと横書きでは頁の繰り方が異なっており、国語の教科書や鉄道雑誌のうち「蒸気機関車」や前期の「Railguy」は縦書きが主流なので右にめくり、算数や理科の教科書と多くの鉄道雑誌は横書きなので左にページをめくります。前述の「Railguy」は途中から横書きに変更したため、「年間1」の合本では、1978年1月号から7月号までは右開きで、8月号から12月号は左開きとなっています。裏表紙のないどっちも表表紙で、7月号の最後のページと12月号の最後のページが隣り合っています。両者とも最後のページは横書きなので違和感はありませんけど。更に思い出してしまいましたが、手塚治虫の「ユニコ」はオールカラーのマンガでセリフはなんと横書きの左開き。そしてコマ割りも左から右へ読む流れでした。つまりアメリカンコミックと同じ構成です。海外での出版を意識したようですが、読む方向に関わらず、難なく読めちゃうって日本語も日本人の頭も、何と柔軟なことでしょう。

 

506号機の主動輪(第3動輪)が大宮総合車両センターに保存されているんだとか。