田中 泰三様の画像につき、転載はご遠慮ください。
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19648 機関車データベース (形式9600) - デゴイチよく走る!
19648は、戦争を挟んで10年間ほど高山機関区に配属されていたようですが、富山第一機関区で廃車となった後、何かの意向により高山市に無償貸与され保存されることになりました。
昭和45(1970)年4月8日
すでに高山機関区からは蒸機が消え扇形車庫はひっそりとしておりました。そこへ富山第一機関区から廃車となった19648が回送されてきました。誰の差し金だったのでしょうね。
保存場所は機関区の裏にある「飛騨体育館」の横で、そこまで移動用の線路が敷かれます。補修庫の下り10番線から延長する格好になります。
車庫を出てすぐのところにカルバート状の道路(歩行者専用道か?)があります。現在は埋められて跡形もないようです。右に補修庫。移動用線路は左へ伸びます。
補修庫を見ています。枕木とレールを取り敢えず置いた状態。
同じ位置から延長方向を見ています。左の保存位置にはすでに線路が敷かれています。「飛騨体育館」の建つ場所には現在「昭和児童センター」の建物があります。
補修庫側を見ます。この移動用線路から保存用線路へどのように機関車を移動させたのか、残念ながらそれを記録したものは田中泰三様の写真にはありませんでした。おそらく、機関車を先端部まで移動した後、移動用線路を分断し、この辺りから保存用線路へ曲げて結んだのだと思います。ただ問題はどうやって機関車を移動したのでしょう。人力?馬力?牛力?ウィンチか何かで?それとも圧縮空気で自力走行?
移動用線路の末端部。延長距離は補修庫から50mほどのようです。
保存用線路。手前側はいかにもレールを締結する気満々のように見えます。
昭和45(1970)年4月18日
19648のお化粧風景です。展示にあたり、お召し牽引機かと見まごうばかりに美しくなります。
機関区に置いてあっただけに、盗難などによる部品の欠損はないようです。
シールドビームからLP42に交換されました。やっぱこうでなくちゃ。でもこれってもしかして炭水車のものなのでしょうか。
錆び落とし、油塗布、タール塗り、白差しなどで新車バリバリの姿に。いややっぱりお召し機みたいです。煙室扉のナンバープレートだけが形式が入りではありません。他は落成時からのものと思われるローマン書体の形式入りプレートです。炭水車のプレートと交換すればいいのに。
そして炭水車に前照灯はありません。4月8日の時点では、えらく腰高の位置にあったのですが、やはり機関車のシールドビームと交換したのでしょうか。
一方、移動用線路はというと。
カルバート状道路の上あたりです。
少々レールに歪みが見られますが形にはなっています。
昭和45(1970)年4月23日 高山機関区でお別れ式が催されました。
移動用線路は完成しています。移動するだけなので、この程度の浮き沈みは問題ないのでしょう。
かわいがってね。
現在とは異なりナンバープレートは黒地でしたし、他にも手入れされる中で多少は外観の色が変わっているようです。
溜息がこぼれる美しさ。この感動をどーしてくれるんだ。
最後の化粧に余念がありません。職員の愛に満ち溢れています。
そして機関区倉庫前の下り13番線でお別れ式が行われました。
この後、職員の一人が機関車に上り、缶胴にお神酒を注ぎました。職員も乗務員も勿論、しっかりとね。神様に、機関車の行く末を見守っていただきます。
そして移動です。
貨車を牽引しているように見えますが、勿論、無動力です。推進する機関車DD51が移動用線路に載らないためだと思います。つまり貨車は控え車の役目ということに。
本物の機関士の姿がキャブにありました。機関士は保存も展示もされません。
先端まで移動された機関車は、この後、保存用線路へ移動しますが、その方法については・・・不明です。
看板は設置済み。設置向きが今とは逆ですが、内容も今のものとはちょっと違うようです。看板を作り直したのでしょうかね。
昭和45(1970)年4月24日 受渡式です。国鉄から高山市に引き継がれます。
今でも大切に保存展示されているのは大変に喜ばしいことです。
高山市に拍手を。田中泰三様とSAMPUKU爺様の地元でした。
それから1年。
昭和46(1971)年8月12日
無事に公園も整備されました。