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昭和42(1967)年8月13日 滝川機関区
早い時期に除煙板の切り詰めが施工されたんですね。因みに、切り詰めされていないお隣のD51は394号機です。
昭和43(1968)年12月27日 釧路機関区
釧路のD51というのも、狩勝峠が無煙化された時代にはピントきませんが、白糠線用だったんですね。昭和39(1964)年に開業した白糠線の、当時、終着駅であった上茶路には炭鉱があって、そこから石炭を搬出していました。上茶路には転車台がないので、上下のどちらかで逆向き運転していたと記憶しています。しかし時代はすでに石炭から石油へ移行し、炭鉱の閉山が相次ぐ中、上茶路炭鉱も昭和45(1970)年に撤退して白糠線はそこでほぼ役目を終えます。計画では足寄を経由して新得まで結ばれ、根室本線のバイパス線になる筈でしたが、貨物輸送がないへき地の路線など建設する意味がありません。結局、日本一の赤字路線の汚名を着せられ、昭和58(1983)年に廃止されます。
D51が何輌も連なるセキ車を牽いて近代的な白糠線を走る光景は、残念ながらあまり記録されていないようです。
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