ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

D51 26

SAMPUKU爺様の画像につき、転載はご遠慮ください。

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昭和42(1967)年8月5日 岩見沢機関区

 

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昭和42(1967)年8月17日 美唄

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D5126

昭和42年なので美唄駅にはまだ架線が張られていません。翌年の8月28日の電化開業へ向けて一気に工事は進むのでしょう。

奥には、駅北側の踏切に架かる人道跨線橋が見えます。なので、26号機は芦別や赤平で採炭した石炭が満載の上り列車を室蘭へ向けて牽引しているのではないかと思います。右に留置されているセキ車は、美唄炭鉱用のものでしょうか。石炭から石油へとエネルギー転換は加速度的に推移している時代ですが、まだまだ石炭の需要は高かった頃です。実際、ウチでもこの頃はまだ石炭ストーブ(ただし調理は灯油コンロ)を使っていました。鋳物ではなく、鉄板製のルンペンストーブでした。

 

くるくるぱーと補助灯とエプロンと旋回窓を除けば、ほぼ原形に近いスタイルでしょうか。助士席前の清缶剤送入装置が載るランボード、何か歪んでいるように見えます。実際、傾いてるし。

 

美唄駅通過に際し、タブレットの授受は行わないのでしょうか。タブレットキャッチャーが起きてないし、機関助士がタブレットを授ける準備もしていないようです。あ、もしかしてすでにこの区間は自動閉塞だったか。

 

今更乍ら、鉄Pで連載された「D51その一族 1115分の1の素顔」を見てみました。1997年1月号に連載を開始し、2012年までの足掛け2世紀におよぶ長編ものです。ただ、思いの外、欠番があるのと、1997年2月号は持っていないので、26号機の扱いがどうなっているのかは確認できていません。