ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

白糠線最終日

dd51 1135様の画像につき、転載はご遠慮ください。

故人が残された写真を、遺族の方の了解を得てアップします。

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二重写しはミスなのか、それとも意図的なものだったのかは不明。他にもこのような二重写しの写真があります。

 

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昭和58(1983)年10月22日

 

白糠線を訪問したことはないので、撮影場所や最終日の様子などは分かりません。ただ、白糠線は赤字ローカル線にはあるまじき高規格の路線で、D51が石炭列車を牽いていたほどでした。白糠から北進より先、足寄まで延長しての白糠線。足寄から上士幌を経由して新得までを結ぶ北十勝線。そして新得からは南千歳までを結ぶ現在の石勝線と、これら3本の線路を結んで、根室本線のバイパス線が計画されていました。なので、白糠線が高規格だったのも納得できます。

因みに石勝線が計画されていた段階では、上落合信号場~占冠占冠日高町は狩勝線、占冠~紅葉山と占冠~金山は紅葉山線、追分~千歳は追分線という名称でした。ここでおや?と思われた方、そうアンタはエライ。占冠を通して、富内線日高町根室本線の金山を結ぶ計画もあったということです。もしも国道の整備が全然進まず、モータリゼーションが停滞していたならば、北海道の鉄道網はめっちゃ面白い状態になっていたかもしれません。まあ流石に、石炭産業の衰退はどうしようもなかったでしょうけど。