田中 泰三様とSAMPUKU爺様と'撮り人不明’様の画像につき、転載はご遠慮ください。
D51 519の車歴は↓こちら。
http://d51498.com/db/D51/D51519
昭和43(1968)年2月5日 留萠機関支区
公式側の除煙板だけ切り詰めされています。旭川区のC55にもそんなのがおりました。それに合わせて設置されたデッキ上のコの字型手摺ですが、通常とは取付方法が異なり、フロントデッキ上固定となっています。非公式側の除煙板も切り詰めされた時点で、コの字型手摺は標準的な前端張への固定となったようです。
「架線注意」札はまだ貼られていません。函館本線はまだ非電化でした。
昭和44(1969)年8月12日 鬼鹿~力昼(羽幌線)
後部補機です。羽幌線の築別駅は羽幌炭礦鉄道が接続しており、D61はD51と共に羽幌炭礦で採掘された石炭の輸送にあたっていました。
昭和47(1972)年6月14日 苗穂工場
解体を待っている状態でしょう。銘板類はおろかタブレットキャッチャーまでもが剥がされています。従台車2軸改造車は余剰車の有効活用として誕生した経緯がありますが、同じD51出身の旅客用C61がそれなりに華やかな存在であったのに比べるとD61は生産輌数が少なく、運用範囲が限定的であり、また貨物用機関車ということもあり、更に一見してD51の外観そのままなので、マスコミに取り上げられることはあまりなかったように思います。しかし、その稀少性故に、一部のファンからの注目度は沸騰点に達していたというのは言い過ぎでしょうか。(全く無関係ですが、C52もED74も、ついでにキハ46も6輌だけの存在でした。)
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