ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

natuno kura が撮影した画像ではないので、転載はご遠慮ください。

D62 2は元D52 448。

D52 448の車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D52/D52448

昭和40(1965)年8月30日 一ノ関機関区

国鉄初のバークシャー。印刷物やネット以外でD62の姿を拝んだのはこれが初めてです。どなたかは存じませんが、撮り人不明様と、これを入手されたSAMPUKU爺様には感謝です。

一瞬、C62 2と見間違えそうなナンバーは休車状態のようです。ロッド類は外されており、この後復帰したのかどうかは分かりません。そしてこの1年後に廃車となります。

煙室戸の下部にも取っ手がありますが、同様のものは常磐線で活躍した一部のC62にも見られます。どのように使用していたのでしょう。

D52は、主たる活躍の場であった東海道山陽本線の電化進展によって余剰となることが明白だったため、乙線への転用を目的に、従台車の2軸化により軸重軽減を図ることとなりました。また、本来の性能を十分に発揮するため、戦時設計から標準設計への装備改造が平行して実施されました。(D52の装備改造はその後に行われます。)改造は20輌全てが浜松工場で行われました。

戦時設計のみすぼらしい姿から新製車のように生まれ変わったD62ですが、すぐに軸重軽減は行われず、D52と共にしばらくは東海道山陽本線で活躍していました。そして電化開業を機に、いよいよ乙線への転用のため軸重軽減が実施されることとなり、更に軸重軽減に伴う空転防止のため、シリンダ径を20mm小さくしています。転用先に選ばれたのは東北本線の長町~盛岡間。全20輌が一ノ関機関区に集結しました。函館本線北陸本線も転用先の候補に挙がったようですが、もしもこれらの路線にも転用されていたら、もっと長生きしていたでしょうし、もしかすると21号機以降も登場していたかもしれません。実際、装備改造されたD52は、D62への改造を容易にすると設計者は語っていたようです。盛岡電化時には盛岡以北への転用も計画されていたようですが、それは叶わず、結局、東北本線での7年間の活躍を最後に全機廃車、解体されてしまいました。ここでもD61と同じように、D52改造のC62が全国のファンから惜しまれて引退したのとは対照的に、静かに引退を迎えています。

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D62/D622