ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

台湾のC55 9ことCT259

江別の鐵様の画像につき、転載はご遠慮ください。

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戦前には「C55 9」として台湾を走っていました。国鉄のC55 9とは別物です。

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カウキャッチャーと前照灯、ナンバープレート以外は日本のC55そのまんま。

台南運動公園から移設されたのかと思いきや、あちらのCT259は実はCT251とのこと。ナンバーの取り違いは日本だけではなさそうです。

整備されて美しい姿になっていますが、煙室扉のハンドルがないのがちょっと残念。

 

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平成25(2013)年1月 打狗(だく)鉄道故事館(現 旧打狗鉄道故事館)

国鉄C55とは炭水車の台車が異なります。古い写真と製造時期から考えて、昭和10(1935)年製の1~5号機は国鉄と同じ鋳鋼製で、6~9号機は板台枠製ではないかと想像します。当時は日中戦争に突入し資材確保に難儀していたようですから、その影響なのかもしれません。C57 135のように炭水車を交換したのではないでしょう。

炭水車の台枠や先輪の車軸に朱を差すというのは日本ではありませんね。砂撒き管が3本に増設されています。煙突が短く見えるのは気のせいでしょうか。

先輪の前側がスポークからディスクタイプに交換されています。

 

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平成28(2016)年5月 打狗(だく)鉄道故事館(現 旧打狗鉄道故事館)

煙室扉にハンドルが取り付けられ顔が引き締まりましたが、年月が経ち、外観はちょっとヤツレ気味。

 

昭和13(1938)年度に6~8号機と共に入線。9号機は最終機。国鉄のC55は62輌中、三菱製はわずか2輌(53、54号機)ですが、台湾C55は5号機を除く9輌中8輌が三菱製です。

昭和16(1941)年に台北機関区配置、戦後の昭和22(1947年)にCT259に改形式・改番。昭和57(1982)年にCT250形式全廃。CT251とCT259が保存されています。

↓こちらの記事から引用。

CT259蒸汽機車 | 舊打狗驛故事館(原 打狗鐵道故事館)

 

 

 

C55 53とC55 54

田中 泰三様とSAMPUKU爺様の画像につき、転載はご遠慮ください。

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昭和43(1968)年3月 宮崎機関区

炭水車はD51 23と振り替えたとのこと。23号機と云えば、あのスーパーなめくじ。門デフはK-7タイプ。白い縁取りのランボードがいいアクセントになっています。

リンゲルマン濃度計を外しています。「架線注意」札が左に寄っています。

 

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昭和45(1970)年9月1日 直方機関区

2年後にはちょっと姿が変わっており、リンゲルマン濃度計を装着。

 

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昭和46(1971)年2月19日 西唐津機関区

砂撒き管は原型では片側2本ですが、第一動輪の前に1本増設して3本になっています。ドーム前の手摺はコの字形。北海道の扇形ほどは目立たない存在です。

 

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基本的にスノープラウは取り付けることがないので、前端梁にボルト孔はありません。

後部標識灯の取り付け高さが、左右で異なるのが何となく気になります。

 

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昭和46(1971)年2月20日 直方駅

大分市に保存されているC55は、53号機をかたる46号機とのこと。なんでそんな無意味なことをするのか、私には理解不能です。インチキはあかんでえ。

車歴は↓こちら。

C5553 機関車データベース (形式C55) - デゴイチよく走る!

 

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昭和43(1968)年3月 宮崎機関区

 

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昭和43(1968)年3月18日 鹿児島区間

「架線注意」札はありません。

バック運転時に備えて、蒸気管が煙室右側からフロントスロープの下をくぐり前端梁の下面を伝ってブレーキ管の下まで伸びています。

画像では分かりませんが、この機関車の炭水車はD51 93のものだそうです。

門デフは53号機と同じK-7タイプ。しかしフック掛け用の穴は一個。対して53号機は2個です。吊った時のバランスが取れる2個派の方が多いようです。

車歴は↓こちら。

C5554 機関車データベース (形式C55) - デゴイチよく走る!

C55 51とC55 52

田中 泰三様とSAMPUKU爺様の画像につき、転載はご遠慮ください。

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昭和43(1968)年3月 宮崎機関区

車歴は↓こちら。

C5551 機関車データベース (形式C55) - デゴイチよく走る!

除煙板上部ステーの前にもう一本ステーが追加されています。物の本には「障害防止用ステー」と説明されていますが、なんか弱っちく見えるのは気のせい?

日豊本線の急行列車ロングラン運用のため、D51 9の炭水車(8-20形)と交換しました。車歴表では、ロングラン運用終了後に、振り替えられた炭水車を元に戻したとの記述がありますが、写真集などで晩年の写真を見てみるとD51の炭水車のままであることが確認できます。C55の炭水車は後部上端の切り欠きが小さく、D51ナメクジのものは切り欠きが大きいので見分けは簡単です。同様に、52~54号機も振り替えられました。

 

 

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昭和43(1968)年3月 大分運転所

 

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昭和45(1970)年9月1日 中間付近

車歴は↓こちら。

C5552 機関車データベース (形式C55) - デゴイチよく走る!

大きめのK-6タイプの門デフ装備で、この1輌のみの存在です。11号機のK-4タイプと同様に、除煙板の大きさを変化させることができましたが、スライド式のK-4タイプとは異なり、除煙板下部が脱着式となっていたそうです。実際、画像にはボルトが写っており、取り外しが可能なように見えます。晩年、一般の除煙板と同様にバイパス弁点検のために、後方下部が切り抜かれています。

こちらの炭水車はD51 12と交換したものです。保存機なのでD51の炭水車であることが確認できます。

C55 50

SAMPUKU爺様と江別の鐵様の画像の転載はご遠慮ください。

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昭和42(1967)年8月7日 旭川機関区

 

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昭和43(1968)年 札幌駅

札幌駅にはC55のほかC62なんかも顔を出していました。札幌駅に隣接して客車区があった頃ですが、まだ架線は張られていません。

 

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昭和47(1972)年1月1日 名寄駅

補助灯が装着されました。名寄駅では稚内行きの321列車と稚内からの324列車とが交換していました。この日は321列車がC55 30の牽引で、50号機が324列車を牽いていました。

 

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昭和49(1974)年8月 旭川機関区

スポーク動輪には芸術品のような気品が漂います。水かき状の補強が従来のスポーク動輪の弱点を克服しました。ボックス動輪に履き替えたC51なんかも、このスポーク動輪を履いていたら、更に人気が上がったことでしょう。

それにつけてもドーム前方に垂れさがった部品は何?

 

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昭和49(1974)年8月 旭川旭川四条

旭川駅を発車して颯爽と北へ向かいます。

 

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昭和49(1974)年9月2日 旭川機関区

 

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昭和52(1977)年3月7日 苗穂工場

流改機である30号機の保存が決定していたのにも関わらずうっかり解体してしまい、その代替に選ばれた50号機。一旦は30号機に仕立て上げられましたが、嘘はアカンやろという批判を浴びて正式に50号機として保存が決定しました。その整備に向けて苗穂工場の片隅で一時の眠りに就いています。

 

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昭和52(1977)年4月 手宮

整備を終えて新車のような艶やかな姿となって手宮に設置されましたが、開業ギリギリまでナンバープレートは未装着。動輪と返りクランクの刻印は「50」が削られています。「30」の刻印を打ったとか打ってないとか。

ナンバープレート付近にあった灯火掛けや補助灯、そしてドーム前方の垂れ下がり部品などが撤去されました。

車歴は↓こちら。

C5550 機関車データベース (形式C55) - デゴイチよく走る!

 

小樽総合博物館に屋外展示されていますが、比較的海に近いため腐食が進行中でしたが、昨年補修工事を受けたようです。保存当初の頃のような輝きを取り戻しているでしょうか。

C55 49

SAMPUKU爺様と江別の鐵様の画像につき、転載はご遠慮ください。

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昭和42(1967)年8月6日 琴似駅付近

 

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昭和42(1967)年8月7日 留萠機関支区

海水浴列車「かもめ号」を牽引していた頃で旭川から留萠本線の増毛や羽幌線の小平や鬼鹿まで運転されていたようです。留萠機関区には当時、D61が全機6輌が配置されていました。

 

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補助灯未装備のまま廃車されたようです。

 

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前面ステップの位置は旭川機関区ならではのもの。デッキの手摺はDD51の手摺みたいに折れています。除煙板に接近しすぎのせいでしょうか。

冬期間はブルーシートで覆われていました。

 

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後退角を持つキャブ前面は、C56、C57、C59(C60)にも採用されました。側窓にはバタフライスクリーンが装備されています。冬場には必須なものです。「5」の字型のタブレット受けやメーカーズプレートがキャブ側面を引き締めています。キャブ前面上部の明り取り窓にまで庇が付けられているのは珍しいでしょうねえ。この窓から前を覗ける人ってどんだけ背が大きいんだか。

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1990年代前半 稚内(旧 稚内桟橋駅跡)

炭水車には増炭枠がありますが、後部枠が山形になっているのは珍しいです。左側のステップが内側に折れているのは、保存設置時にひん曲げたのものでしょうか。

車歴は↓こちら。

C5549 機関車データベース (形式C55) - デゴイチよく走る!

廃車後は稚内の北防波堤ドームに隣接して保存されていましたが、潮風をモロに受けて腐食が進み、平成8(1996)年に解体されてしまいました。ここには戦前、稚泊航路(稚内~泊(現在のコルサコフ))の桟橋が設けられており、稚内桟橋駅では防波堤ドームによって風雨にさらされることなく連絡船に乗り継ぐことができました。

C55 48

田中 泰三様とSAMPUKU爺様の画像につき、転載はご遠慮ください。

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昭和42(1967)年8月7日 旭川機関区

 

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昭和43(1968)年9月1日 岩見沢第一機関区

車歴は↓こちら。

C5548 機関車データベース (形式C55) - デゴイチよく走る!

いつだかの記事でちょろっと紹介した48号機ですが、C55としてはもしかすると唯一の切り詰め除煙板装備かもしれません。片側だけですけどね。

前部ステップは右側だけ前端梁に移設されています。前に移すと、手摺が離れてデッキへの昇降がやり辛いように思えるのですが・・・。炭水車後部の左側ステップは改造されています。中段の踏板を取り外した代わりに、炭水車の台枠(端梁)にコの字型のステップを追加しています。

補助灯は未搭載です。早々の廃車が予定されていたので搭載しなかったとか。

キャブは北海道らしく密閉化。後退角をもったキャブ前面が醸し出すスマートさが失われていますが、厳しい冬の北海道でのやむを得ない措置でしょう。

そうえいば、北海道の機関車ではよくドーム前に扇形の手摺(地域によって形は異なります)が設置されているのですが、この機関車には装備されていません。なんか異端ですな。

C55 42とC55 43

SAMPUKU爺様の画像につき、転載はご遠慮ください。

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昭和42(1967)年8月13日 琴似駅付近

車歴は↓こちら。

C5542 機関車データベース (形式C55) - デゴイチよく走る!

C55は形態的に3つのグループに分かれており、1次車:1~19号機の前期標準型、2次車:20~40号機の流線形、3次車:41~62号機の後期標準型となります。2次車・3次車では、1次車よりも全長が100mm短くなっています。更なる増備となった63、64号機は、性能的にも外観上も改良の域を超えていたため新形式のC57となりました。

 

画像の時代には苗穂区の所属でしたが、前所属の旭川区で前側ステップを前端梁に移設していたようです。除煙板前端に手摺は増設されていません。画像ではちょっと判別できませんが、おそらくキャブは密閉化されていたでしょう。

機関車に「架線注意」札はあるのに、線路には架線も架線柱もありません。同じ場所で撮られた他のコマを見ると反対方向(おそらく札幌方)には架線柱だけ建植されています。前年の11月に手稲銭函間で電気車の試運転が開始していたものの、電化工事の進捗状況はこんなものなのでしょうかね。因みに当時の琴似はこんな田舎風でした。あまりの変わり様に場所を特定することができません。

 

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昭和43(1968)年12月26日 音威子府駅

 

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昭和43(1968)年12月26日 稚内機関区

車歴は↓こちら。

C5543 機関車データベース (形式C55) - デゴイチよく走る!

音威子府駅の列車に乗車して、SAMPUKU爺様は稚内へ向かったのでしょう。当時の時刻表が無いので確認のしようがありませんが、稚内機関区で捉えたバック運転は、稚内機関区から稚内駅へ向けての回送列車でしょう。機関車は稚内到着後に機回しを行い列車の先頭に立ちます。

炭水車の前照灯は炭庫に埋め込まれたタイプで、手宮の小樽総合博物館に保存中の50号機と同じ構造のようです。