ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

D51 112

SAMPUKU爺様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和42(1967)年8月20日 原ノ町機関区

車歴は「機関車表」(沖田祐作著 ネコ・パブリッシング)から。一部加筆。

川崎車両兵庫工場=1937(製番) 1938-06-29(落成日)

S(蒸気機関車)77.60t(運転整備重量)1D1(軸配置)T(テンダ形)

(1067)(軌間
車歴;1938-06-29製造→納入;国鉄;D51112→1938-06-29使用開始→

配属;東京局→
配置[東鉄達510];東京局→1939-01-31現在;新鶴見

1947-10-00現在;新鶴見
1948-07-01現在;浜松→

新鶴見→1950-10-10借入;新鶴見発坂町→1950-12-02返却→
1955-03-01現在;品川→

1955-08-01現在;品川→

1958-02-00水戸→
1960-08-00現在;平→

1969-11-16廃車;平

なぜかサイトのページがなくなっているので。「機関車表」から拝借しました。

 

平機関区所属で、常磐線で貨物列車の牽引に従事していたと思われます。昭和43(1968)年に常磐線の最終SL貨物列車牽引で花道を飾ったようです。

あまり外観的特徴に乏しいように見えますが、エプロンが単なる一枚板ではなく、両端から折り曲げて奥へ向けてガッツリガードしている構造は珍しいのではないかと。

他には補助灯の位置がちょっと高目にある、それくらいしか分かりません。

ナンバープレートが右上がりに傾いているように見えるのは気のせいでしょうか。

D51 109

SAMPUKU爺様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和42(1967)年8月1日 直江津機関区

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D51109

火が無く前照灯が無いと思ったら、廃車直後の姿のようです。

N-2タイプの門デフ(長工デフ)を装着。重油タンクを装備した姿は、いかにも信越線の山岳地方を走るスタイルに見えます。いまだ煙室扉の取っ手はダブル。

炭水車は103号機では板台枠の台車をはく「8-20B」形式でしたが、正式に「8-20B」と組むようになったのは107号機からのようです。炭水車の振替は珍しくないので、別形式の機関車間(たとえばC55とD51とか)であれば話題にもなるでしょうが、同形式間では大して見向きもされなかったでしょうね。

エプロンがかわいらしいというか、役に立っていたのか疑問なほどの小ささです。

 

この機関車のナンバープレートの拓本(印刷物)が、彰文社サン企画出版の写真集「永遠の蒸気機関車」に、レコードとともに付属されています。この写真集は持っていませんが、蒸機末期には拓本を取るファンが機関区で機関車のフロントに上がっていたものです。苗穂機関区で一度だけ目撃したことがあります。キャブに乗って取ることもできたでしょうが、体勢はかえってキツイと思います。機関車に上がっても、機関区の事務所で事前に「拓本を取りたい」旨を伝えていたでしょうから、特に叱られることもなく、取ることができたのだと思います。今から考えると夢のようです。因みに私には機関車に上がる勇気は無かったので、垂直飛びでキャブ側面にノートを叩きつけて「部分拓本」を試みたことがあります。北海道の蒸機はとにかくナンバープレートも汚かったので、煤跡で番号がくっきり取れました(笑)。せいぜい2文字程度でしたけどね。B5サイズの大学ノートだもん。

D51 104

田中 泰三様と江別の鐵様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和47(1972)年5月23日 酒田駅

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D51104

晩年は北海道に異動します。

昭和49(1974)年4月 遠浅~沼ノ端

 

昭和48(1973)年3月 森~桂川

 

正面気味の画像だけなので、渡道前、渡道後の違いがよく分かりませんが、除煙板が切り詰められているのと補助灯が増設されたのだけは分かります。

酒田区時代には一時的だったようですが、炭水車の台枠が白く塗られており、一番上の画像でもそれらしく見えたり見えなかったり。ただの化粧だったのか、それとも何か意味があってのことだったのか。

旋回窓は101号機同様に張り出しタイプ。

あかん、もう書くことがないです。

最後に、「団結号」(と書いた組合員)のバカ。

D51 103

田中 泰三様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和46(1971)年2月17日 下関機関区

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D51103

長門機関区の所属なので、山陰本線の運用に当たっていたのでしょう。

砂撒き管3本揃っての直下は、標準形になっても変わらない汽車會社製の特徴。

保存されているものの、展示状態も機関車の状態もあまりよろしくないようです。

 

昭和48(1973)年の「SLダイヤ情報 秋冬特集号」をめくると、当時の山陰本線の蒸機運用は米子~下関間となっており、米子区、浜田区、長門区の三つの機関区のD51で運用を賄っています。

米子区は米子~浜田間、

浜田区は米子~長門市間、

そして長門区は浜田~下関間をそれぞれ担当していました。

この中で最も運用距離の長いのは浜田~下関間の客車列車で、823列車と828列車の上下各1本ずつ、運行距離は204.0kmです。

823列車は浜田発04:10、下関着10:32で所要時間6時間12分、

828列車は下関発12:28、浜田着18:55で所要時間は6時間27分。

両列車とも益田で30分以上停車するというのですから、何とものんびりしています。もっとも、今では浜田~下関間に直通列車は存在せず、

浜田発05:28発の列車に乗車し、途中、益田と長門市で乗り換えて下関着は11:43と所要時間は6時間15分であり、蒸機時代と何も変わりません。気動車化によりせっかく運転速度が向上しても、ブツ切運用に加えて接続の悪さのダブルパンチが所要時間の短縮に全く貢献できていません。同様のことはJR西日本だけの問題ではありませんけどね。

D51 101

田中 泰三様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和47(1972)年5月23日 酒田駅

 

昭和47(1972)年5月23日 酒田機関区

 

昭和48(1973)年4月14日 坂下~落合川

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D51101

標準型の第一号になります。でも、煙室扉の手摺は左右両側にあるんですね。

酒田区時代には炭水車に重油タンクを載せていますが、中津川区へ異動すると降ろされたように見えます。その代わり集煙装置を載せて男前を上げています。

キャブ屋根が東北機らしく、後方へ延長されていますが、現在の保存車を見ると延長部分は撤去されています。中津川区で取り去られたのでしょうか。

旋回窓は両側にありますが、機関士側のものは張り出しの上、幾分斜めに取り付けています。少しでも視界を広く取ろうという事でしょうか。

炭水車は台車が板台枠となった「8-20B」。一部のナメクジではこの炭水車に振り替えています。煙室前端の丸味がなくなったことと合わせて優雅さは消え、貨物機らしく地味さ倍増です。

快速「木曽路号」で101号機は、除煙板に「つばめ」マークを付けて走ったことがあるそうです。

http://joki.o.oo7.jp/1mai/0702.htm

D51 99

SAMPUKU爺様の画像につき、転載はご遠慮ください。

昭和42(1967)年8月13日 滝川機関区

 

昭和43(1968)年12月24日 栗山駅

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D5199

生涯のほとんどを岩見沢機関区で過ごした機関車のようです。

1年と4カ月ほどの間のある2枚の画像を見比べると、補助灯の有無(とスノープラウの有無)くらいしか認識できません。除煙板の切り詰めはこの後でしょうか。ネット上で昭和44(1969)年3月の画像を見つけましたが、やはり切り詰めされていません。廃車まで残り半年ほどなのに、果たして切り詰めされますかね。

 

室蘭本線上り列車の最後尾から撮影した下の画像ですが、この時の栗山駅は夕張鉄道が健在で、まだ賑わいが残っていた頃でしょう。夕張鉄道には一度だけ、野幌から栗山まで乗車したことがあります。

https://railway-photo.hatenablog.com/entry/36507960

画像の左奥には給水塔が見えます。夕張鉄道のものでしょうか。

 

蒸機晩年には栗山~栗丘間には多くのファンが訪れました。今から見れば信じられないくらい貨物列車の本数が多く(1時間に3本以上)、そのほとんどがD51牽引によるものでした。歩いていけるほどの駅間距離ですが、その間にはトンネルがあったり築堤があったりで、そこそこ変化に富んだ沿線風景である上に、煙もそれなりに期待できました。今と違って、線路際は雑草にまみれることもなく、足回りがすっきりしていましたしね。

D51 97

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昭和42(1967)年8月17日 追分機関区

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D5197

終生、道内で過ごした機関車です。正面ナンバープレートの位置が低くて、不細工顔ですが、愛嬌があって憎めません。

キャブ前窓の庇が幾分、下向きになっているように見えますが、ネット上の写真で確認すると、途中で折れているようです。

キャブは密閉化されていません。

清缶剤送入装置がキャブ前にデンと載っています。

翌年までには電化対策で補助灯が設置され、除煙板の点検口の蓋は撤去されます。

フロントの向かって左側のステップですが、2段目の踏板がすんげえ小さいんですけど。レタッチミス?自分でやりましたけど。

煙突のクルクルパーが、何だかアクセントに見えてきて、そんなに悪くない様に思えている今日この頃。

機関区にはもうもうと煙が立ちこめています。大きな機関区はどこもこんなんだったでしょうか。1時間も居ようものなら、鼻の中は真っ黒になっていました。