ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

D50 200

SAMPUKU爺様の画像につき、転載はご遠慮ください。

f:id:railway-photo:20220225073755j:plain

f:id:railway-photo:20220225073806j:plain

昭和42(1967)年3月27日 米原操車場?

車歴は↓こちら。

D50200 機関車データベース (形式D50) - デゴイチよく走る!

キリ番である上に外観は極めて良好に見えます。化粧煙突が風格を添えます。前部上端を斜めに切り取った除煙板と、高く持ち上げた上部ステーは、長野工場で整備された機関車の証のようです。キャブ前窓には機関助士側も含めて庇が取り付けられています。フロントデッキ上の手摺は撤去。ナンバープレートの縁取りが四隅で途切れているのはボルトの位置が縁の中にあるから?炭水車は12-17形式。

運用こそ米原~田村間4.7kmとショボイ区間に過ぎませんが、機関車牽引列車のほぼ全て(一部はED30牽引)をD50がエスコートしていました。それまではE10やD51もD50とともに気を吐いていました。

もともとは倶利伽羅峠での補機運用を終えて行き場を失っていたE10が、バック運転に適しているという理由からこの区間に活路を見出したわけですが、わずか5輌という存在は量的に十分ではなかったので数に余裕のあったD51やD50らと競演することとなりました。E10にとっての不幸は、少数であるが故に代えの部品調達などの面で不利であり、また戦後間もない時期の製造ということで低品質の部材を使用していたことや構造上検修に手こずるなど、保守に手間がかかったということから、ここでもわずか5年ほどで運用を終えてしまいます。完全新製機関車としては国鉄最後の形式でしたが、福米以降は持てる力を存分に発揮できなかったその末路には涙を禁じ得ません。

さて、引く手あまたなD51は他へ転属し、E10と入れ替わるようにD50がこの区間を掌握しました。この当時はまだディーゼル機関車が不足していたため、余剰となった蒸気機関車、とりわけいつ廃車になってもおかしくない老兵D50に白羽の矢が立ち、最後の奉公とばかりに毎日毎日、平坦な短区間をピストン輸送に明け暮れました。回送機関車が付いて、重連となることもあったようです。

そうした、重貨物牽引という本来の目的からはズレまくった運用ながらも、清楚に整備された姿には、保守や運転にあたる職員、乗務員らの心意気や、老兵に対する敬意が感じられます。