ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

C50 80とC50 88

田中 泰三様の画像につき、転載はご遠慮ください。

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昭和43(1968)年7月1日 小山機関区

車歴は↓こちら。

C5080 機関車データベース (形式C50) - デゴイチよく走る!

キャップ付きの化粧煙突はオリジナル。除煙板は後付け。空気制動は最初から搭載。キャブ周りは直線的になり腰高のランボードと相まって足回しはスカっとした印象を受けます。小山区のC50は両毛線で客車や貨物列車を牽引していましたが、水戸線でも活躍していたそうです。

 

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昭和45(1970)年9月24日 糸崎機関区

車歴は↓こちら。

C5088 機関車データベース (形式C50) - デゴイチよく走る!

トラ塗りの入換機。炭水車側面には安全十字マークが描かれていました。糸崎機関区にはC59やC62といった大型機関車が配置されており、入換機のC50はあまり目立つ存在ではありませんでしたし、トラ模様をまとっていたことで被写体としてむしろ敬遠されていた節があります。

 

C50は形式番号こそ1番っぽいですが、実際には18900形式(大正8年登場)→C51形式、8200形式(大正14年)→C52形式、C53形式(昭和3年)の後の昭和4(1929)年に登場した機関車です。昭和3(1928)年10月の形式称号改正により、その時点で製造されていた機関車に新形式が付せられたわけですが、18900形式や9900形式は絶賛製造中だったので、新形式C51、D50が与えられました。一方、8620形式と9600形式は国鉄向け分は製造が終了していたので新形式が与えられませんでした。

しかしなぜに18900はC50ではなくC51となったのか、そしてまた形式称号改正前に製造された8200がなぜにC52という新形式を与えられたのか、不思議でなりません。登場順から形式を決定すれば

18900→C50、C53→C51、C50→C52、8200→変更なし

となった筈です。

C50よりも先に登場したC53が後番号になった背景には、大きな機関車ほど形式番号も大きくするという考え方があったのではないかと云われています。C53が製造されている最中、すでにC50も設計中だったので、中型の機関車にトップ番号を譲ったのではないかと。

C52に関しては単純なミスとも考えられます。その例として以前紹介したホンの一時期だけC13と命名された2920形式が挙げられます。私鉄からの譲渡車5両のうち、最初に編入された3輌がC13となりました。しかしミスが早期発見されてすぐに2920形式に変更。C52の場合は、もしかするとミスを承知しながらもC53誕生のための重要な機関車という敬意をこめて新形式を与えたのかもしれません。もともと8200という形式も、使い古された2代目のものだったわけだし、蒸気機関車の歴史の中でちょっとは光を当てたいという担当者の意思があったのだと思いたいです。

 

C50は8620の増備改良機として開発された機関車です。実際、そのスタイルは煙突キャップや煙室付近のランボード曲線など大正デザインの流れを汲みつつも、ランボード位置を高くして足回りをバッチリ見せる昭和の爽快感が漂います。昭和初期の不景気な時代に登場したため鉄道の輸送量は低迷し、同時代に登場したC11やC12が続々と増産されたのに対して、C50は国鉄向けが154輌に留まりました。(後に、樺太庁鉄道から4輌が編入。)

すでに登場していたC51が幹線用の旅客用機関車であったのに対して、C50は都市近郊の快速列車やローカル線の客貨輸送に充てられました。戦前は急行運用にも就いたことがあったそうですが、8620よりも軸重が重く急曲線に対応できないというローカル線運用には不向きな点が指摘され、戦後は入換機として地味な仕業にあたりました。

形態的には67号機までの前期型と68号機以降の後期側に区別できます。両者では軸配置が異なり、動輪の軸重も変わっています。検修の現場では混乱しなかったのでしょうか。

 

私はC50を見たことがありません。初めて苗穂機関区を訪れた時、C50を見た様に記憶しているのですが、写真は撮っていないし配置もありません。単純な記憶違いでした。いまだに保存車すら目にしたことがありません。