ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

D51 259

matuno kuraが撮影した画像ではないので、転載はご遠慮ください。

昭和41(1966)年10月21日 田端機関区

車歴は↓こちら。

http://d51498.com/db/D51/D51259

長野工場製であります。長野工場で製造されたD51は、土崎工場製と同じ9輌になります。国鉄工場製としては最少になりますが、逆に最大輌数を製造したのは、標準型の試作機(86~90号機)を製造した浜松工場で、その数70輌。2位の鷹取工場製の58輌も大きく引き離しています。どうして工場によってこれだけの差が出たのでしょうね。国鉄工場ではD51を作っているだけでなく、本来の業務は稼働車輛の検修でしょうから、その仕事の山の関係だったのかもしれません。つまり、浜松工場は暇だった?そんな訳なでしょうけど。

お皿型のクルクルパーがなければ蒸機ファンから恋されそうな原型に近い姿に見えます。キャブ前妻の丸い明り取り窓は久々に見た気がします。少し大きい気がしますが。

磨き出された煙室扉の十字ハンドルが印象的です。

この当時、新小岩区のD51の運用範囲は越中島新小岩~佐倉間ですが、これが昭和44年には蘇我新小岩~金町となっているとイカロス出版蒸気機関車機関区総覧 -東日本編-」には記されています。変更なのか拡大なのかは分かりませんが、まだ都心部を蒸機が走っていた頃なので、沿線住民に気遣い、煙を出さないように機関士は相当に注意して運転していたようです。

 

定価より安くヤフオクに出品されていたので即決で落札した「RAILGUY 1983年春号」。今の「Rail Magazine」的存在で、グラフィック重視の雑誌でした。いつの間にか廃刊されたのですが、形式ごとの特集記事が魅力的で、大きめの写真に加え詳細な記事も特長でした。読者投稿の写真を多用することで、濃いめの読者を獲得し、投稿者の名前の中には著名な方々が散見されます。私も学生時代に2回だけ投稿し、初めて稿料なるものを頂戴しました。後にも先にも、写真を雑誌に投稿したのはこの2回だけ。

さて、この1983年春号ですが、特集はDD51。巻頭十数ページをカラーで埋め尽くす力作には圧倒されます。実は、「RAILGUY」はこの号が最終でした。次号の特集記事の写真募集もしていただけに、まさに急逝でした。廃刊の理由は、ネットの記事によれば、ある記事の内容が国鉄の逆鱗に触れ、「国鉄首都特別扱承認雑誌」の扱いを取り消されたことが発端なんだとか。今でも鉄道会社は鉄道雑誌の記事を「監視」しているようなので、編集部もそれなりに気を遣って記事を選んでいるのでしょうね。

因みに創刊号もDD51特集でした。