田中 泰三様の画像につき、転載はご遠慮ください。
昭和47(1972)年8月26日 米子機関区
車歴は↓こちら。
http://d51498.com/db/D51/D51579
第一種休車明けで復帰した時の姿でしょうか。鷹取式集煙装置搭載ですが、大館区時代、炭水車上に載せていた3000リッターの重油タンクはそのままだったのでしょうか。新見区のD51は重油併燃は行っていなかったので、載せていても空だったでしょうし、でも載せたままなら邪魔で石炭の積載が少なくなってしまうので、撤去したと考えるのがスジでしょうかね。
煙室扉の十字ハンドルは新鶴見区時代のものがず~っとそのまま残っているのかな。
前端梁が孔だらけです。東北時代でも会津若松区や磐西線管理所、大館区と異動しているので、そのたびに異なる形式のスノープラウを装着していたとか。
某写真集で確認すると、キャブ前妻には明り取りの丸窓が設けられ、キャブ屋根は延長されています。
どうでもいいことですが、除煙板から伸びて煙室前端に引っ掛ける鉄棒(北海道機ではそこに「架線注意」札を取り付けています)が、左右で高さが異なっているのに何か理由があるのでしょうか。そもそもこの鉄棒に何の意味があるのかも分かりませんし。