ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

DD51 焼失

昭和51(1976)年という年は、色々な意味で思いで深い年でした。
そのトップは、何といっても、国鉄から蒸機が消えたことでしょう。その前の年の12月に本線から蒸機が消えたのは大きなニュースになりましたが、追分で入換をしていた9600形が3月2日をもって引退し、これにより国鉄から全ての蒸機が消えたことは、同じ日に発生した道庁爆破事件の陰に隠れて、ほとんどニュースらしいニュースにもなりませんでした。その日、私は大学受験を翌日に控え、学校の下見に行かなければならなかったので、最後の雄姿を見届けることはできませんでした。大学にはしっかり落ちましたけれど。

しかし、それと同じくらいショックだったのが4月13日深夜に起きた、追分機関区の火災です。扇形車庫内の検修室が火元とされていますが、これにより車庫は全焼。格納してあった機関車、蒸機5両とDL10両のうち、救出できたのはDL2両だけで、他の機関車は炎に呑み込まれ、崩れ落ちた天井の下敷きになってしまいました。蒸機5両は、最後まで活躍し、静態保存先への旅立ちまで大切にしまわれていたもので、それが仇になってしまいました。そして、DLは全て現役で使用されていたもので、国鉄にとって8両もの機関車損失はさぞ大きかったことでしょう。

火災から半年後、受験勉強の気分転換とばかりに追分機関区を訪れました。9か月ぶりとなりますが、入換のDE10がせわしなく動いていたものの、9600がちょこまか動いていた頃に比べると、何とはなしに寂しい雰囲気でした。実は、追分機関区に入るのはこの日が初めてでした。稚内、名寄、旭川、滝川、岩見沢、苗穂、小樽築港、鷲別、長万部、帯広(運)の各機関区、運転区は訪れていましたが、何故か追分だけは行ってませんでした。
事務所に挨拶をして構内に入ると、燃えた車庫の残骸は片付けられており、転車台の周りには機関車たちが野ざらし状態で留置されていました。そして、燃えて、錆びて赤く朽ちてヨレヨレになった機関車たちの姿が構内のあちこちにありました。

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DD51 682

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DD51 683

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DD51 684

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DD51 1144

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DD51 1169

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上の写真2枚は、DD51 1079とDD51 1103ですが、どっちがどれなのか分かりませんでした。

1079、1144、1169は、昭和50(1975)年の落成で、まだ新車に近い状態。中でも1169は9月に落成したばかり。半年ほどしか走らずにこの世を去ってしまいました。蒸機を全廃に追いやった憎っくき仇とはいえ、こういう無残な最期を見ると哀れに思えて仕方がありませんでした。

他に悲運のDD51としては、成田線でジェット燃料輸送貨物を過激派に狙われ、火を放たれた620や693、酔っ払い機関士が衝突大破させた717がおります。

ついでで申し訳ないのですが、追分機関区火災では他にもう1両のDLが焼失しています。DE10 1144です。こちらも新製から1年に満たないピッカピカの新車でした。

鉄道車両を擬人化するのは苦手ですが、不幸な最期を遂げた車両には、やはり憐憫の情を抱かずにはいられません。なお、ご紹介した上記の火災、事件、事故では、一人の死者も出ていないのが不幸中の幸いといえるかもしれません。