ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

清水港線

昭和56(1981)年、社会人になって最初の職場は清水市(現 静岡市清水区)にありました。そのすぐ近くには清水港線というローカル線が走っておりましたな。この路線は、DD13が牽引する1日1往復の客車(または混合)列車が有名でして、私も学生時代の昭和52(1977)年の夏休みに撮影で訪れたことがあり、ここに配属されたのも何かの縁と感じました。
もともとこの路線は清水港で陸揚げされた物資を輸送する臨港線でしたので、清水駅の乗り場は変なところにあって、下り東海道本線の静岡方ホーム端を降りて、踏切で本線や貨物線を渡った先にホームがありました。

戦時中は軍用列車が走っていたそうで、日本一の黒字線だった時代もあったそうです。実際、終点の三保にはいくつもの工場があり、引き込み線にはいつも貨車が止まっていました。旅客列車は1日1往復だけでしたが、貨物列車は区間も含めると5往復は走っていたように記憶しています。旅客はオマケ扱いだったのです。
すっかり赤字路線に転落し、貨物も道路輸送へ切り替えられるようでしたので、昭和59(1984)年3月に廃止されてしまいました。廃止前の臨時列車は人人人であふれていましたが、そんなランチキ騒ぎとは無縁の時代に三保から乗車しました。昭和57(1982)年3月7日のことです。

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まずは三保駅のホーム。春爛漫です。北海道はまだ冬だというのに、清水市は温暖な地域であり、冬であっても氷が張ろうものなら大騒ぎになるほどです。冬のコートは必要ありませんでした。

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この日の牽引機。

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朝の下り列車は通学客で一杯になりますが、夕方の上り列車は、どちらかというと物好きなファンや観光客がちょこっと乗車するだけでした。なんせ沿道には静鉄バスが1時間に何本も走っているのですから、町に行く人はバスを利用するに決まっています。

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駅の写真は別の日に撮っていたので、この時にはこんなものしか。

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三保~折戸の間は住宅地の中を申し訳なさそうに走っていて、小さな踏切が幾つもありました。

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沿線で遊ぶ子供たちの姿をよく見かけました。

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折戸駅。かつてはここから専用線だかが伸びていたらしいのですが、そんな雰囲気など微塵も感じられず、アパートの裏にホームだけがポツンとあるだけでした。朝の列車では、生徒たちはここでごっそり降ります。

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左手には幹線道路が走り、車が結構走っています。右手にはやがて海が見え、また工業地帯の雰囲気に変わってきます。岬は弧を描いていて、それに沿って線路は走っているので、三保と清水とでは180度、列車は向きを変えます。

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建設中の鋼製のサイロが見えてくると、まもなく巴川口駅です。線路が何本も並んで、いかにも臨港線の雰囲気を出しておりました。でもこの時に写真は撮っていないので出せません。

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列車は右側にだけカーブします。

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川口駅を出ると、有名な巴川可動橋を渡ります。普段は船舶の航行のため橋は上がった状態で、列車が通過する時だけ橋は下げられていました。それだけ船舶の航行が多いということなのでしょう。全国でも数少ない可動橋ということで、廃線後も保存されると聞いていましたが、結局は撤去されてしまいました。

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巴川を渡るとほどなくして清水埠頭駅です。右手には船着き場があり、三保との間を船が結んでおりました。直線で結ぶと、鉄道や道路より遥かに短く、会社から直接町に繰り出す時にはよく利用していました。船で通勤する人も結構いました。なんせ、船着き場は会社の裏でしたので。「男女7人夏物語」みたいやん。この駅から町中までは歩いて行ける距離でした。

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やがて、高架道路の下を潜り抜けると、すぐに清水駅到着です。ここでフィルムが終わってしまい、肝心の清水駅は撮れず仕舞いでした。

で、別の日に撮影した写真から。
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川口駅

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巴川可動橋。左側には富士山が見えます。

まだまだ写真の整理ができていないので、現時点でお見せできる写真はこんなものです。でもいずれちゃんとした写真をご覧いただきます。(あくまで予定ですが。)

今では沿線はすっかり様変わりし、当時の様子を伝える記念物はほとんど残されていないそうです。
2年と少ししか暮らしませんでしたが、なかなか思い出多い時代ではありました。

3月は富士山がとても綺麗に望める場所です。三保の松原もお忘れなく。