ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

5年ぶりの札幌駅西側

5年ぶり、と言っても今からの事ではありません。下に掲載の写真の時代からの話。
つまりこの場所で
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なんかを撮影したのが5年ぶりということで、それは社会人になってここで5年ぶりに撮影したということ。
え~い、回りくどい。

札幌市内では有名な、伊藤邸の裏になります。街の真ん中に邸宅ですよ、どんだけ金持ち~。
今はこの区間は高架になっていますが、この当時はその高架を建設中でした。この場所では、荷物車の入換や気動車の組成なんかが行われていました。

昭和61(1986)年10月一杯で、山線から特急「北海」、そして客車急行「ニセコ」が消えるということで、有休を使って撮影に来ていた時のものです。その5年前といえば、14系客車が道内で運行を開始した時であり、その最初の運用が急行「ニセコ」でした。グリーン車が消えて寂しい気がしましたが、利用者の立場からすればスハ45系とは比べ物にならないくらい居住性がよくなり諸手で万歳という気分でした。就職のために内地へ向かう時にもこの急行「ニセコ」を使いましたので、個人的にはに思い出深い列車です。

その急行「ニセコ」を撮り終えて、札幌に戻ってから撮影したのが以下の写真です。
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「来るくる電車ポプラ号」なる快速列車です。あまり速そうなネーミングではありませんけど、その後に登場する「マリンライナー」「いしかりライナー」「空港ライナー」「快速エアポート」といった快速列車がヘッドマークを掲出するハシリとなりました。行き先サボの位置が原型のままで、出入り台扉の横にありました。まだ711系に冷房車は1両もありませんでした。

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特急「北海2号」
なんと、グリーン車がありません。781系電車じゃあるまいし。
札幌発13:52、函館着18:29。所要時間、4時間37分。特急「北斗」などはほぼ4時間で走っていましたから、函館~札幌間を乗車する人はまず「北斗」を選びました。なので、私は空いているであろうという理由で帰省の際には「北海」の方を好んで乗っておりました。実際のところ、空いていたという印象はあまりありませんけど。

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普通列車です。タラコ40。当時はもうツートンの一般形気動車は残っていなかったかと。
キハ22、キハ24、キハ46と、み~んなタラコになっていました。キハ17系やキハ21はいなくなっていましたし。5年前とはだいぶ様子が違っていました。

以上は昭和61(1986)年10月13日、ちょうど今から30年前になりますが、その間には国鉄が分割民営化され、札幌駅周辺・帯広駅周辺は高架化され、北見駅周辺は地下化され、JR化後に登場した寝台特急は全滅し、キハ56系やキハ80系、DD51も消滅、上砂川支線・深名線北海道ちほく高原鉄道江差線非電化区間の廃止、宗谷貨物・チップ輸送貨物・石油輸送貨物・石灰石輸送貨物の廃止、ED79全廃、といった消え去ったものがある一方で、当時は夢物語であった北海道新幹線の開業という具合に、この30年間の変化はとても大きいものでした。
では昭和61年の30年前はというと私はまだ生まれる前で、北海道は各地の炭鉱が元気なころでした。日曹、羽幌、留萌、雄別、尺別、芦別美唄寿都、夕張、大夕張といった私鉄、炭鉱鉄道があっちにもこっちにもありましたし、殖民軌道なんてのも道東には残っており、丸瀬布でお馴染の森林鉄道も人知れずありました。定山渓鉄道旭川電気軌道もバリバリ元気でした。山陽路を追われたC62が北海道に渡り、急行「まりも」「大雪」の牽引にあたるようになり、怒涛のC62重連運転が開始されました。明治生まれの古典蒸機が生き残っており、DD51やキハ56系、キハ80系などは影も形もなく、まさに別世界の様相を呈していたことでしょう。

まあ、それくらい30年という時間は重いわけで、そうなるとこれから30年後の2046年に北海道の鉄道がどうなっているのかなんて、誰も全く想像がつきません。北海道新幹線が札幌まで到達しているかもしれませんが、果たしてJR北海道は存続しているでしょうか。