ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

札沼線に乗って

誰が命名したのかは知りませんが、「学園都市線」などと呼ばれている札沼線。全国時刻表、道内時刻表ともに「札沼線」と表記した上で「愛称名 学園都市線」と付け加えてありますが、JR北海道のウェブページには学園都市線の表記しかありません。バカでしょう、あんたら。

というような思いなど微塵もなかった国鉄時代、夏休みの帰省時にふらりと乗車しました。
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ふらりだったので、出発は最寄りの新琴似駅。札幌駅まで行くの、面倒じゃん。この当時はまだ非電化の単線の地上駅。小さな駅でしたが、待合室にはちゃんとキヨスクもありました。
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新十津川行きの4両編成ですが、後ろ2両は途中の浦臼止まりです。前からキハ40+キハ46+キハ40+キハ56だったでしょうか。この当時、札幌~新十津川間の直通は6往復も走っておりました。今は札幌からの直通はなくて、石狩当別新十津川間は1往復だけ。廃止前提としか思えない設定です。

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途中はほとんど写真も撮らずに、開け放した窓から風を浴びて、ただただぼんやりしていました。で、浦臼駅に到着。ここで後ろ2両を切り離すために少し停車します。駅員はいるし車庫はあるし列車の交換はできるし腕木式信号機はあるしタブレット交換はあるしと、ちゃんとした駅の機能を揃えておりました。かつては山田友市さんという方が駅弁を販売していたそうです。札沼線の建設に当たってはこの駅を境に北線と南線に分けて工事が進められました。
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切り離した後ろ2両は転線します。貫通部に見える人はどう見ても駅員や係員ではありませぬ。
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当時の浦臼駅。駅前には国鉄バスが停車中です。「石狩線」といって滝川や奈井江と結んでいました。

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終点の新十津川駅です。そこそこ乗客がありました。この頃は「しんとつがわ」と呼んでいました。旭川は「あさひがわ」でしたし「留萌」は「留萠」などと、微妙に今とは異なる駅名でした。
石狩当別~石狩沼田間は戦中から戦後にかけてレールを剥がされ休止した時期もありましたが、戦後徐々に復旧し昭和31(1956)年11月16日に全線での運転を再開しました。ところが新十津川~石狩沼田間は利用客が少なかったために敢え無く昭和47(1972)年6月18日をもって廃止されてしまいました。
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花壇も整備されており、駅員が居る駅にはまさに華があります。
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便所も完備。目が痛くなりそうですけど。ホームと駅舎の間は線路跡のようです。かつてはこの駅でも列車交換が行われていたのでしょうね。
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現在の駅舎は、サッシ窓より左側がなく、こじんまりしています。
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駅前の様子です。この頃も駅前には商店も何もない、侘しい雰囲気を醸し出していました。

バスの時刻を調べるでもなしに、この後は滝川駅まで歩いて行き、札幌へ戻ったのでありました。
(参考文献:国鉄の旅 北海道編 保育社

昭和58(1983)年8月15日