ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

D51 603を豊平川で

その事をどうやって知ったのかはもう記憶にありませんが、昭和50(1975)年10月3日、休み時間に高校の公衆電話から苗穂工場に電話をかけました。
「今日、D51の出場があると聞いたのですが、何時頃に工場を出るのでしょうか」
そんなことを尋ねたような気がします。
電話に対応してくれた方は、1時半かそのあたりを教えてくれたのだと思います。

その日は金曜日でしたが、なぜか授業は午前中まででした。授業を終えるとお昼も取らずにまず地下鉄で札幌駅へ行き、駅からは南口でタクシーを拾って苗穂へ向かいました。タクシーの運転手には、これから国鉄最後の蒸気機関車が工場を出るので、それを撮影しに行くんです、というようなことを興奮気味に話しかけたような気がします。苗穂駅西側の、今ではすっかり有名になった跨線橋の近くで降してもらうと、駆け足で跨線橋に上がりました。

工場の方を見ると、まさに今、D51 603が出場したところでした。こちらへ向かってくるD51と、長い跨線橋を走る私との競走ですが、D51の方が足が速く、私が北側の階段付近に到着した時にはすでにD51跨線橋を潜ろうとしたところでした。

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残念ながら正面の撮影は間に合いませんでした。ぴっかぴかに磨き上げられたD51 603は、国鉄蒸機の最後の検査出場車なのでした。
でも、ここでのんびりと観察している余裕はありません。この後D51は転車台で向きを変えるはずなので、先回りしようとすぐにその場を離れます。

イメージ 2

走って走って何とか間に合いました。部活で陸上短距離走をやっててよかったと思った瞬間でした。ちょうど特急「いしかり」が通過してゆきますが、写真的にはかなり残念な出来栄えです。

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転車台で転向します。標準レンズでの撮影のため、いささかD51が小さいので、トリミングしました。さよならのヘッドマークが確認できます。「サヨナラSL」と書いてあります。
感慨に耽るまもなく、ここから更に走ります。すでに短距離を超えていますが走ります。豊平川まで走ります。学生服姿の自分は走ります。上白石橋まで走ります。

思えば、苗穂機関区に遊びに行っていた頃、豊平川に来ることは一度もありませんでした。機関車を撮影することだけが目的で、列車の撮影は頭になかったからです。
でも、その後に列車を写すようになると、豊平川で蒸機を撮影しなかったことがやたらと悔やまれるようになりました。そんな後悔を抱えていただけに、この日、単機ながらも豊平川で自力走行する蒸機を撮影できるのですから、叶うはずのない夢が叶ったといえるでしょう。もう気分は高揚しまくっておりました。

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白石←苗穂
14時25分頃、D51 603は軽快に豊平川を通過してゆきました。
そしてこの直後、大きく手を振りました。普段の自分なら恥ずかしくてできないことですが、異常なまでの高揚感がそうさせたのでしょう。機関士がこちらに顔を向けてくれたように思います。そしてすかさずまたシャッターを切りました。
そんな私の後ろを、何台もトラックが通り過ぎてゆきました。当時の上白石橋には歩道がなく、路肩で高欄にへばりつくように撮影していたのですが、もうこれで車に轢かれて死んでも構わないと思ったほどでした。

空腹と疲れが急に襲ってきたこともあり、何やら気が抜けたように苗穂駅へ戻る途中で、にっくきDD51が単機三重連で通過してゆきました。

イメージ 5

何故か上白石橋の下で撮影しています。どうしてこんなシチュエーションでDD51三重連が撮影できたのか、全く記憶にありません。DD51三重連なら悪くないかも、得したかも、そんなことを考えたことだけは妙に残っています。

もしも追分機関区での火災がなければ、D51 603は検査上がりでしたから、蒸機全廃後もすぐに復活していたかもしれないですね。