ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

豊平川で

夕方になってから撮影に出かけました。受験勉強疲れを癒すためだったのでしょうか。猛勉強をしている受験生にしてみれば「へ」程度だったのかもしれませんが、自分としては結構勉強をしていたような気がします。少なくとも高校生時代よりは。

今回は豊平川付近にやってきました。平成の今もよくファンが来ていますね。

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白石→苗穂 6170列車 DD51 788
奥に見える踏切は米里通りで、今はアンダーパスになっています。

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白石→苗穂 7874列車 DD51 789
橋と橋の間からひょこっと顔を出して撮影。今は柵がしてあったでしょうか。

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白石←苗穂 3539D
先頭はキハ12、その後ろはキハ16でしょうか。最後尾にもキハ17らしき車両が連結されています。

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白石→苗穂 1770列車 DD51・・・DD51
貨車3両をDD51がサンドイッチ。なんて贅沢な貨物列車でしょう。しかも、3両の貨車のうち、前後は車掌車。貨物を運ぶのは真ん中のワム1両だけ。

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白石→苗穂 3882M列車
画面左端にちらっと、以前の橋梁を支えていた橋台がまだ残っています。下の写真ではもっとよく分かります。橋梁の向こう側で、線路が軽くSカーブを描いているのは、現在の橋に合わせて線路を付け替えた結果なのでした。

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白石←苗穂 24D 特急「北斗3号」
キハ80系は札幌~函館間を4時間半近くも要していました。最高時速が95キロだった時代です。特急「いしかり」の485系も95キロに抑えられていたので、札幌~旭川間は1時間43分もかかっていました。翌年、本州へ撮影旅行した時、東海道線113系に乗ったらその速さにびっくらこいたものです。

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苗穂駅→白石 835列車 ED76 520
平成の今ではすっかりお馴染の場所です。でも当時は歩道がなく(反対側にだけあった)、あまり快適な撮影地ではありませんでした。おまけに踏切があったので車は数珠繋ぎで渋滞していましたし。

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DD15 304
この扇形車庫も遂に解体されてしまいました。ここをミニ博物館にして往年の名車を保存するという手があったかもしれませんが、「金ね~」「人手ね~」ではどうしようもありません。なにより「やる気ね~」でしょうし。

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苗穂駅→白石 6170列車 DD51 1141
今は踏切が廃止され、別の道路からアンダーパスで線路と交差していますが、この頃はご覧の通り、ズラ~ッと並んだ車が列車の通過待ちを強いられていました。函館本線千歳線、更に専用線がありましたから、しょっちゅう遮断機が下りていました。

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苗穂→札幌 830列車 ED76
いつもの駅西側跨線橋からです。テレビ塔がよく見えます。この跨線橋、今のとは異なり、レールで組んだトラス橋でした。金網は本線上にしかなかったと思います。

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DD51 1091
1091号機の後ろは「団結号」のようです。蒸機が廃止になっても、ストは相変わらず行われていました。膨らみ続ける莫大な借金、その赤字体質を何としても立て直そうと合理化を進める国鉄当局と、それに断固反対する組合との闘争は、一向に収まりませんでした。その闘争の狭間で、割を食うのはいつも国鉄利用者でした。

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キハ55 10ほか
キハ55は運転台の窓が小さな初期型です。くたびれ具合から廃車のようにも見えますが、廃車は昭和56(1981)年ですので、検査入場だったのだと思います。手前には蒸機の残骸が無残に晒されています。

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苗穂→札幌 1010M 特急「いしかり5号」、DE10 1596
入換機関車の向こうを、特急「いしかり」が通過します。DE10が進出していますが、DD13も健在です。工場内ではDD11がまだふんばっておりました。

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照明塔が煌々と苗穂駅構内を照らします。今でもタマに点灯することがあると思います。

このあと、なぜか中心街へ行ってます。本屋をぶらつくことがあったので、そのついでだったのかも。
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西四丁目電停 253号
フィルム消化だったらしく、撮影はこの2コマだけ。
果たして気分転換になったのか。もう自分でも覚えていません。

昭和51(1976)年9月23日