今回は豊平川付近にやってきました。平成の今もよくファンが来ていますね。

奥に見える踏切は米里通りで、今はアンダーパスになっています。

橋と橋の間からひょこっと顔を出して撮影。今は柵がしてあったでしょうか。

先頭はキハ12、その後ろはキハ16でしょうか。最後尾にもキハ17らしき車両が連結されています。

貨車3両をDD51がサンドイッチ。なんて贅沢な貨物列車でしょう。しかも、3両の貨車のうち、前後は車掌車。貨物を運ぶのは真ん中のワム1両だけ。

画面左端にちらっと、以前の橋梁を支えていた橋台がまだ残っています。下の写真ではもっとよく分かります。橋梁の向こう側で、線路が軽くSカーブを描いているのは、現在の橋に合わせて線路を付け替えた結果なのでした。

キハ80系は札幌~函館間を4時間半近くも要していました。最高時速が95キロだった時代です。特急「いしかり」の485系も95キロに抑えられていたので、札幌~旭川間は1時間43分もかかっていました。翌年、本州へ撮影旅行した時、東海道線の113系に乗ったらその速さにびっくらこいたものです。

平成の今ではすっかりお馴染の場所です。でも当時は歩道がなく(反対側にだけあった)、あまり快適な撮影地ではありませんでした。おまけに踏切があったので車は数珠繋ぎで渋滞していましたし。

この扇形車庫も遂に解体されてしまいました。ここをミニ博物館にして往年の名車を保存するという手があったかもしれませんが、「金ね~」「人手ね~」ではどうしようもありません。なにより「やる気ね~」でしょうし。


今は踏切が廃止され、別の道路からアンダーパスで線路と交差していますが、この頃はご覧の通り、ズラ~ッと並んだ車が列車の通過待ちを強いられていました。函館本線と千歳線、更に専用線がありましたから、しょっちゅう遮断機が下りていました。

いつもの駅西側跨線橋からです。テレビ塔がよく見えます。この跨線橋、今のとは異なり、レールで組んだトラス橋でした。金網は本線上にしかなかったと思います。

1091号機の後ろは「団結号」のようです。蒸機が廃止になっても、ストは相変わらず行われていました。膨らみ続ける莫大な借金、その赤字体質を何としても立て直そうと合理化を進める国鉄当局と、それに断固反対する組合との闘争は、一向に収まりませんでした。その闘争の狭間で、割を食うのはいつも国鉄利用者でした。

キハ55は運転台の窓が小さな初期型です。くたびれ具合から廃車のようにも見えますが、廃車は昭和56(1981)年ですので、検査入場だったのだと思います。手前には蒸機の残骸が無残に晒されています。

入換機関車の向こうを、特急「いしかり」が通過します。DE10が進出していますが、DD13も健在です。工場内ではDD11がまだふんばっておりました。

このあと、なぜか中心街へ行ってます。本屋をぶらつくことがあったので、そのついでだったのかも。


フィルム消化だったらしく、撮影はこの2コマだけ。
果たして気分転換になったのか。もう自分でも覚えていません。
昭和51(1976)年9月23日