ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

用事ついでに札幌駅で

受験を終えて、惨敗を実感。まあ、きちんと勉強してこなかったから当然の結果ではあるけれど、はっきりと不合格を自覚するなんて、どんだけ出来が悪かったんだ。
納得の結果であるから、それは大した問題ではありません。

実は受験の前日に、追分機関区で入換にあたっていた国鉄最後の蒸機となった3両の9600も、遂にその日限りで役目を終え、お別れの式典が実施されたのでした。流石にその日は受験の前日であり、試験会場を下見しなくてはいけませんでしたので、撮影は諦めておりました。翌日の新聞に報道されるはずなので、それに期待していたのですが。

受験前日である昭和51(1976)年3月2日、北海道庁で爆破テロが発生しました。事件の被告は死刑判決を受けるも、いまだ執行はされていません。被告は最初の公判から一貫して無罪を主張しており、また決定的証拠がないので、冤罪かもしれないという関係者の思いが拭い去れないままなのかもしれません。それにしても当時は、国内に暗躍する反日的な人間は、テロという行為を平然とやってのけました。身内同士の殺し合いもありました。現在でも近接する反日国家を見れば、自己中心的な無法っぷりには眉をひそめたくなります。日本を代表する反日新聞社も、これまで何度捏造記事(誤報ではなく)を掲載してきたことでしょう。反日よりも恥を知れ。

それはともかく、この事件のせいで、追分機関機でのお別れ式のニュースは極めて小さな扱いになってしまいました。それが悲しかった・・・。

自分の中では、予備校生として今度は真面目に勉強しようという決意を固め、それでも札幌駅に用事があったので、せっかくなのでつい撮影をしちゃいました。
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函館行き「おおぞら3号」に増結する付属編成が0番線に待機しています。釧路からの10両編成が、札幌からは13両編成になるのです。付属編成の入換、組成はDD13が行います。手間も時間もかかりますが、当時はこういうマメな運用が全国で見られました。毎日毎日、DD13が80系気動車を牽引するなんて、わくわくするではありませんか。

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特急「いしかり」
北海道初の電車特急でありL特急の「いしかり」は、昭和50年7月から運転を開始しました。1日から運転を開始する予定でしたが、組合が騒いだために18日にずれ込んでしまいました。そのため、急きょ、変更後のポケット時刻表が国鉄の主要駅で配布されたのですが、時間がなかったせいか、表紙は白地に黒文字だけのいたって簡素なものでした。
札幌駅では早々に配り終え、赤平駅で運よくもらえたのですが、いつの間にか紛失してしまいました。
写真の編成では、テールランプがまだ内バメのままの姿です。後にメンテのしやすい外バメに改造されると、出目金にようになります。
所詮は本州仕様の485系を北海道向けにモデルチェンジした車両だったため、冬期間は雪にやられて運休が続出し、北海道専用車両の登場が急がれ、485系が北海道で活躍したのは5年間足らずでした。でも本州では長いこと走り続け、後輩の781系より長生きしましたね。

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荷物車を連結した普通列車
50系客車というものがまだこの世に現れる前、道内の客車列車は全て旧客だけでした。夜行急行にしても10系寝台客車が少し新し目という程度でした。
機関車の前面からあふれる蒸気は、暖房用のものが漏れたものです。蒸気機関車なら運転に使う蒸気の一部を客車に回しますが、DD51やED76ではSG(蒸気発生装置)を搭載し、そこで作った暖房用の蒸気を客車へ送ります。当時は10両を超す編成も珍しくはなく、機関車のすぐ後ろと、最後尾とでは暖房の利きに大きな差があったといいます。

DD51やED76から上がる蒸気を見ては、蒸機の面影をそこに見ようとしたものですが、そんなことをすればするほどに虚しくなりました。

昭和51(1976)年3月14日 札幌駅