ただいま鉄道写真スキャン中

昭和40年代中半の国鉄時代から、21世紀初頭のJR時代までの鉄道写真をご紹介。当時のことやら思い付いたことなどをとりとめなく記しました。

新生活

昭和51(1976)年4月18日、予備校の入学式です。バイトで朝の新聞配達を始め、蒸機も消え、いよいよ新たな生活のスタートです。

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新琴似駅
通学に使う札沼線新琴似駅は改装中です。小ぶりな駅舎ながらも、中にはKIOSKが入っています。それなりに商売になっていたんでしょうね。
列車を待っていると、チンチンと閉塞装置の音が待合室に漏れてきます。

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桑園駅で休憩中のDD1346
予備校は桑園駅から歩いて7,8分くらいのところにあります。近くにはもう一軒、別の予備校があって、多くの学生がこの駅を利用していました。札沼線の車内ではよく元同級生に会いました。おお、お前もか、ってな感じで。

桑園駅跨線橋から札幌方面を見下ろします。当時は桑園駅から東西へ引き込み線があちこちに伸びておりましたが、その線路を貨車が走るのはほとんど見たことがありません。まる1日観察すれば見られたかもしれませんが、そこまで熱中することはありませんでした。当時は専用線など珍しくもありませんでしたし。

厚生年金会館で予備校の入学式が終わった後、東急デパートへ向かいます。札幌駅の近くにあります。この日は、漫画の神様こと手塚治虫さんのサイン会があるのです。
手塚漫画は当時はよく読みました。小学生の頃は御多分に漏れず「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」を熱読。「ジャングル大帝」は小学館の小学○年生という雑誌にも連載されていました。「鉄腕アトム」の類型としては「ロップくん」というオールカラーの作品が、やはり小学○年生に掲載されていましたっけ。大学生になってからは全集が発刊されましたが、文庫本の「シュマリ」、大型本の「火の鳥 鳳凰編」のラストシーンが忘れられません。「奇子」や「鳥人体系」
「上を下へのジレッタ」といった作品は学生時代に初めて知り、作品のジャンルの広さに驚きました。

1980年代後半、チェリノブイリの原発事故を受けて反原発運動がブームになった頃、手塚さんは「核分裂原発は反対だけれど核融合なら賛成します。だって、当分実用化できないから」と語ったその言葉に何を勘違いしたのか、反原発の旗手的存在だった広瀬隆氏は「手塚は原発賛成派だ」と指摘しました。「原発なんて、私のような素人でも設計できる」などと豪語するほど無知なうっかり屋さんだったこともあってか、そのうち忘れ去られてしまいました。もう少しまともな人間が反原発運動を進めていれば、原子力政策に影響を与えたかもしれません。

話が逸れまくってしまいましたが、残念ながら東急デパートのサイン会会場ではすでに整理券はなくなっていてサインはもらえなかったので、やむなくサイン中の写真を何枚か撮って帰りました。
それにしても自叙伝的内容の「紙の砦」に登場する手塚さんの分身は、小柄な体で泣き虫という設定だったのですが、実際の本人はとても大柄だったので、その印象の違いにいささか驚いてしまいました。

札幌駅に戻る途中、少し写真を撮ってから帰宅しました。

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駅東側の跨線橋から
金網越しなので、網がムラのようにぼけて写っています。右に見える駐車場はホーム跡のようになっていますが、かつてはここから荷物や貨物の積み下ろしをしていたのでしょうか。

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跨線橋から降りた踏切より
助士席に乗務員だか職員がおりますが、しっかり赤い鉢巻をしております。当時はこういう姿をよく目にしました。今から見ればガラの悪い印象でした。

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キロ26
当時は急行列車でも、グリーン車以外は非冷房でした。このキロ26形は北海道の専用形式で、本州仕様のキロ27、キロ28、キロ58とは外観が全く異なります。まだグリーン帯が残っています。一度も乗ることはりませんでした。

この後は受験勉強に精励するかと思いきや、バイトで稼いだお金で、初めて一眼レフカメラを買うのでした。買ったら、撮りに行きたくなるよね~。
受験は甘くないぞよ、おい自分。